240716

摂取日記映画

午前中は部屋と談話室で社会学の試験勉強をした。昼寮食のあさりピラフが美味しかった。

午後は、場所を変えよう・少しは部屋をでようという思いで大学に出た。経済学部の図書館が閉まっていたので、附図書で作業の続きをした。

私のゼミ論文は規範的な問いを抜け出せそうにないので、倫理学を参照しようかなあと思っているところである。山内さんの『わからないまま考える』を手に取る。「情念」は私のキーワードに関わってきそうな感じがする。スピノザ論が面白かった。

あまり集中が長く続かなかったので、結局寮に戻って夕食をとった。夜は下鴨ロンドで上映会。“We are here. ONODERASAN’S DREAM FOR THE FUTURE.” を制作者とともに観た。まだうまく感想が出てこない。備忘録程度のコメントを残す。

作品の中で登場する寝たきりのお婆さまは、「過去」のことをよく話していた。聞き手が「将来」の希望について尋ねると、彼女は自分の子どもへの思いを喋った。聞き手は「彼女自身の将来」について尋ねた。彼女は「歩けるようになって、部屋を片付けたいと答えた」。私は言葉に詰まった。残酷な問いではないかと思ってしまったのだ。彼女はどんな思いでそれを口に出したのだろうか。歩けるようになるかもしれないというかすかな希望を本当に抱いていたのだろうか。もしもに思いを馳せることは幸せだっただろうか。願っても、しかし叶わないと思ってしまった、自分の言葉によって直面してしまったのではないか。直面しないほうが良かったのではないか。気づかないままにいられた方が良かったのではないか。将来への希望の吐露は誰のためだ。彼女のためだったのか。良い「絵」を取るためではなかったか。

介護士である語り手は街の綺麗さを憂いていた。その綺麗さは、介護の実態を狭い家に閉じ込めることの上にあるのだと憤っていた。彼は世界を汚したいと言っていた。ここでもまた、私は言葉に詰まった。他者の気持ちに対して、わかると軽々しく言うべきではないのだろうが、その発言を「わかって」しまう気がした。しかし、抵抗したい私もいる。私は痛いことが嫌いだ。もちろん、語り手は直接的に「あなたたちはこの実態をわかっていない。知らなければならない。その上で生きていかなければならないのだ。」などと述べていたわけではない。しかし、曲解かもしれないが、私はその糾弾の色彩を感じてしまった。彼の気持ちは、憤りは「わかる」が、しかし、すんなりと飲むことはできなかった。その暴力性に抵抗したいと感じてしまう私もいたのだ。

上映後の感想交流にて印象に残ったことを2つほど。1つ目。何かを試みるというその事態は「点」である。しかしその試みののちにもそれに関わった人々の生活は続いていく。事態の前後に「線」的な連続性として人生は存在している。「やりっぱなし」になっていないか?という問いかけがあった。鋭い指摘だと思う。2つ目。希死念慮と「私」の例外性について。映画を見て、私は寝たきりになってまで生きていたくないと思った。まあそのような状態になっての発言ではないので重さはさしてないのだが、しかし今の時点ではそう思ってしまう。私の他にもそう感じる人はいたようだ。その人は「優生思想の内面化だと否定されるかもしれませんが…」と付言していた。そのような批判の仕方があるのか。知らなかったな。

ギリギリまで粘ったのちに自転車を飛ばして寮に戻り、屋上で恋人と電話で話をした。