午前の3時を回ってようやく眠りにつけたのちの朝。何度か目覚めてしまったが、今日しっかり眠っておかないと明日のバイト先で地獄を見ることになってしまう。何度も布団でうだうだした甲斐があって、正午まで眠ることができた。
一年前に買ったネックレス、昨日着けていたネックレスが見当たらない。昨日着ていた服のポケットを探るも出てこない。別件で、1週間くらい前からこの夏に買った白いシャツが見当たらない。最近よくものがなくなる。
眠りを妨げたあの悩みは嘘のように凪いでいた、ように起きたときには思えた。結局それから数時間経ったときには救いようがないほどに沈み込む私がいた。
恋人との間に生じるどうしようもない鬱屈とした感情や、相手に対する不満について、正直に話すことは誠実さを示す方法であるがゆえに正当化されるのだと信じて疑わずにいたが、そんなことはないと最近思うようになってきた。「あなたに対して誠実でありたいがために、私はここまでいうのだ」というのは、非常に使い勝手の良い弁明のフレーズだ。ただただ相手に許されたいがための発言であっても、相手を傷つけることを意図した発言であっても、それらの魂胆を覆い隠すことができる。いかにままならなさを感じているとはいえ、伝えたところでなんら事態の解決には繋がらないことを言葉に乗せて当てつけのように投げつけることは単なる憂さ晴らしであり、暴力的な行為を超える価値を持つことはない。
ただし、ここで難しいのはただ単に口をつぐむことは、容易にコミュニケーションの放棄へとつながるということだ。「言ったってどうにもならない」というニヒリズムに陥ったとき、関係性の破綻は近い。
口から出てようとする言葉に、その文字通りの意味以上の色-相手への非難であったり、同情を誘う調子であったり-を乗せようとしているときには、色そのものを大切にした方がいい。その色自体を相手に伝える努力をした方がいい。生々しく具体性を帯びた言葉のなかに託された真意を読み取ることは難しい。聞き手はその具体性にショックを受け、そこから立ち直ることでいっぱいいっぱいになってしまう。
かつて、恋人に対する負の感情が限界を迎えて、「私がこれほど苦しんでいるんだから、あなたも少しくらい傷ついてくれ」を洗いざらい吐き出したことがあるが、傷ついた相手をみて凹んだのは他ならぬ私であった。
そんなことを思いながらも、しかし重苦しい気分は拭えず、恋人との待ち合わせ場所に向かう電車を待っていた。数日後に『存在の耐えられない軽さ』の読書会が控えていたので、それを読み進めながら電車に乗った。作中に登場するトマーシュを眺めていると、彼は私だと思えた。彼はどうしようもない男だ。愛する女性がいるにも関わらず、愛人達と逢瀬を重ねることをやめることができない、どうしようもない男だ。そんな男を、私に似た存在であると感じたことは、私の恋人にとっては不愉快極まりないだろうし、私も申し訳なさ・やましさを抱かずにはいられないが、しかしそう感じてしまったことは事実だ-ただし、少し補っておくならば、私は彼の色狂いぶりそのものに共感したわけではなく、彼がやましさを感じつつも欲求を抱くことをやめられないという、その「どうしようもなさ」に共感したのである-。
私はトマーシュほどの「特別な人間」ではないから、何らかの情念を抱いたとしても実際の行動に移すことはない。しかし、情念を抱くことをやめることはできそうにない。だからその感情が正しいか間違っているかを論じることに本質的な意味はない。倫理的に正しくないことは明らかであるが、そうした裁定を下したとて私の本性ゆえにどうしても感情を抱いてしまうためだ。その「間違った」感情とどう付き合っていくかという問いを考えることのほうが、私にとって意味ある行為だろう。その付き合い方とはすなわち、「間違った」感情を抱いていることに後ろめたさを抱くこと、しかし抱いてしまうこと自体は諦めて受け入れること、そして抱いてしまう私をケアすること、これらを過不足なく行うことに落ち着くだろう。
どうしようもない男であるトマーシュを私が嗤うとき、私はトマーシュに投影している私のことも嗤っているのだ。そのように自嘲的な笑いを浮かべて気が緩んできたところで、恋人との待ち合わせの場所についた。
結局のところ悶々とした感情が完全に消え去ることはなかったが、恋人との食事は和やかで楽しいものだった。消化しきれない感情を胸の片隅に置いたままに、その感情の向く対象と心を解いてコミュニケーションを取るなんて芸当は今までできた記憶がない。そういった意味で今日は記念日的な日である。ただ、「もやっとした感情を抱えており、そのことについて話し合いたい!」ということは伝えてしまっており、その後で「しかし話し合いとは言ったものの不用意に相手を傷つけて終わりそうだ」との判断をして勝手に口をつぐむという、相手からしたら釈然としない形で終わらせてしまったことは反省している。もやついていること自体を、不必要に伝えない形で振る舞えるようになりたい。
夜、昨日着ていた服のポケットの底にネックレスが見つかった。丁寧に探すものだと思った。