240602

日記

ここ最近でも屈指のひどい寝起きだった。昨晩の寝付きの悪さをひきずっている。布団に入って3時間も眠られずにいたのは久しぶりだった。一人部屋ならまだましなのだが、あいにく二人部屋の二段ベッドなので、3時間ももぞもぞし続けたことを同居人に申し訳なく思うばかりであった。

予定時刻よりも15分遅く目覚めてしまった。シャワーを浴びたかったが、そんなことをしているときっと遅刻してしまうだろうと諦めた。普段の0.75倍速くらいでしか動けない。のそのそと顔を洗い、洗濯機をまわし、プロテインと野菜ジュースを飲む。

ヘッドホンを着けて、”OVERTIME” という春野さんの曲を延々かけ続ける。ここ数日ずっと聴き続けている。私は飽き性ではあるのだが、音楽に関しては一度癖になるとなかなか抜け出せない。そのうちぱたっと聴かなくなるのだが、それまでは他の曲をかけてもなんだかんだお気に入りに戻ってしまう。

だんだん目も覚めてきた。洗濯物を干し、荷物の準備をする。08:20過ぎに寮を出て、08:30過ぎの電車に乗り、コンビニでご飯を買ってバイト先に着く。上司と8月のシフトについて相談する。多く休みをくださいと申し出たところ、すんなりと許可してくださった。

私のバイトとは事務当直である。基本的には日曜の09:00から月曜の09:00まで、事務室で缶詰になっている。電話がかかって来なければ何をしていてもいいので、本を読んだり、曲を書いたり、課題を進めたり、日記を書いたりしている。

割のいい仕事だとは思うが、前日くらいからだんだんと憂鬱になってくる。今週もまたこの日がやってきてしまった、と。いざ職場についてしまえばどうってことないのだが、それまでは気がそぞろになってしまって、ものごとにあまり手がつかなくなるので、その時間にも給料が発生して欲しいものだと思う。

私は本を読む時にブックスタンドを使う。今日もバイト先で使うつもりでいた。しかし、困ったことにパーツが足りない。数ヶ月前に壊れて以来、本を載せる台の部分が外れやすくなっており、その部分を寮に忘れてきてしまった。ただただ荷物を増やしてしまったという事実に少し萎えてしまうが、日記のネタになると思うと気も紛れる。


頭を下げなければならないかもしれないと思うだけで、気が沈む。自分に非があるわけでなくても、役回り上謝罪しなければならない場面というのはある。窓口や受付はそのような場所である。今日のバイト先は業者さんがたくさん来ていていつもと雰囲気が違う。事前の調整がうまくいっていなかったらしく、不都合が生じている。

切迫した状況下にいる人とやり取りをすると、時としてショックな言葉を投げかけられる。その度に呆然として言葉が出なくなってしまい、それから数時間、へたしたら数日鬱々とした気持ちを抱えることになる。今日はそんな日になりませんようにと祈る。


岸政彦さんの『断片的なものの社会学』(2015, 朝日出版社) をようやく読み終えた。今年に入ってから読んだ本の中で、一番手にとって良かったと思える本だった。これまで出会ってきた本の中でも指折りだと思う。

私の感じた魅力を言語化するならば、それは著者の「ためらい」と「戸惑い」と「冷め」にあるのだと思う。正しくあるために手放さなければならないとわかっていながらに、どうしても手放せないこと。あまりにもショックな事態が起こった時に意図せず生じてしまう身体の反応に自分で驚くこと。自分の感じる悩みや、そもそも自分自身のことを、くだらないものだと思っていること。それらの手触りがあまりに自然で、私の中に染み込んでくるために、私はこの本に感じ入ったのだと思う。

「だからどうした、ということではないが、ただそれでも、そういうことがある、と言うことはできる。」(同書, 214頁) と言う一文に、私の感じた魅力が詰め込まれている。身の周りに立ち込める問題は、簡単に割り切れるものばかりではない。許せない思いと、許してほしい思いと、憎めない思いと、憎みたかった思いと。そうした混沌の中で、しかしなんとか生きていかねばならない。事態が解決するわけではないが、しかし、紛れもなく大切な気づきを、大切に抱え、他者と共有し、どうにかこうにか日々を過ごしていかなくてはならない。

明瞭な議論というものは魅力的である。迷いもなく答えを提示できる人間には憧れを感じる。しかし、その強さを前に何も言えなくなることもしばしばある。私は、割り切れなさを感じつつ、そのためらいを大切にしている人に惹かれる。

一点断っておくと、岸さんが、あらゆる問題に対して、どっちつかずの態度を取っているというわけではない。しっかりとした信念も感じられるし、腰の座った主張も述べられている。そこに行き着くまでに悩んで、考えて、動いてきたのだということが感じられるからこそ、そうした信念や主張が読み手の腑にも落ちてくる。

人に贈りたいと思う本だった。

授業の場になぜかいることができず、これまでで初めて、確信犯的でない、やむにやまれぬ早退をし、凹んでいた日に大学の図書館で手にとった本だった。それ以降、未だにちゃんとその授業には出席できていないので、問題は一切解決していないのだが、そんな日に触れたからこそ染み込んでいくものもあるわけで、あの日はあの日で仕方なかったなあと思っている。


関西で過ごして数年が経つが、未だに「おおきに」という言葉をいただくと、「嬉しい」よりも「びっくり」が先に来る。「なんでやねん」、「ほんまかいな」と並んで、これぞ関西弁!というものすぎて、本当に存在するのか?という疑いが拭えていないからなのだろう。


木曜日の読書会に向けて、カルヴィーノの『見えない都市』 (2009, 河出書房新社, 米川良夫訳) を読んだ。最初から最後までよくわからないよとは事前に聞いていた。確かに、よくわからない部分が多かった。面白かったと感じたところをメモに残していたのだが、数時間後に読み返すとその3分の1はすでによくわからなくなっていた。


この後も何かと色々あったのだが、書きつけたそれらを読み返してもなんだかしっくりこないので、ごっそり省くことにした。

日記を書くということを口実に、1日を楽しめた気がする。


ここで日記を終えたかったのだが、あまり綺麗に終わってくれなかった。勤務して一年と数ヶ月経つが、初めての事態が起こってしまい、周りの人たちをすごくバタバタさせてしまった。滅多にないことなので、仕方ないなと思う面もあるが、もう少しなんとかできたなと思うこともいくつかある。

一度派手にミスしてしまうとしばらく引きずってしまう。一旦嵐が去った後に、別件での問い合わせがあったが、リスクに対して慎重になりすぎてしまった。電話の切り際の、先方の暗い声を思い出すと申し訳なさで具合が悪くなる。

昨日のコンパで、多額のカンパを払ってしまったことを、一晩経って頭が冷めた今、ほんの少しだけ悔やんでいる。なけなしの金をはたいて自動販売機で清涼飲料水を買う。勤務中に酒は飲めない。甘い甘いの飲みものを飲み干して、文章を書きつけることしかできない。

明日は05:30に起きなければならない。早く入眠したいと願うが、願えば願うほど眠りにつけなくなるのが難しいところだ。そして何より、電話で叩き起こされる可能性だってある。そもそも私の役割は主として電話番なので、起こされて当然の立場である。

去年の夏にメンタルが壊れかけたので、10月から3月までの半年間を休学し、この春から復学した。そんな状態で心身にくる日当直のバイトを続けるのかという話もあるのだが、金がないとどうしようもない。気が向いたままに本を買ったり、少し我慢すれば音楽系の機材が買えたり、長期休みには遠出したりということを想像すると、やめるという選択肢は思いつかない。

なんだかすっきりとしない終わり方になってしまったが、そんな日もある。