本書は、引きこもり、モンスターペアレント、依存症などの問題が生じてしまう社会的・精神的なメカニズムについて、精神科医である著者が解説する本である。内容を私なりに要約すると以下のようなものになる。
自分が抱えている自己愛や全能感といったものは、他者との関わりの中で打ち砕かれていく。理想の自分を断念せざるを得ない状況に追い込まれ、苦しみつつも諦めるという行為をどうにか受容しなければならない。この経験を繰り返すことによって、人は大人になる。言い換えると、成熟していく。
問題は、この過程に耐えることができずに過剰に逃避してしまう場合に生じる。自分がちっぽけな人間であるという事態を拒絶し、そこから身動きが取れなくなることは、登校拒否をしたり、引きこもったりすることの原因になる。
また、その拒絶が他者に対して向くこともある。「こんなはずじゃなかったのに…。こうなってしまったのはあいつのせいだ!」という思考である。この他責化の表出例が、モンスターペアレントである。
あるいは、その理想と現実の乖離に伴って生じてしまう痛みに対して、和らげる物質を摂取しつつ、乗り越えようという心が働く場合もある。それは例えばアルコールや薬物などへの依存症という形で出現する。
諦めが悪くなってしまうことは、消費社会の構造的な問題である。例えば、老いて容姿が変わっていくという事態を拒絶し、お金を積めば若く美しくいられるという可能性を広告を通じて喧伝する。こうなると、事態を受け入れにくくなってしまう。
また、人々の選択の余地が大きすぎること、そしてさらに、こうした自由が息苦しい自己責任論と表裏一体であること、それらもまた逃避・逸脱行動を引き起こす原因となるのである。
ここからは感想である。正直なところ、耳が痛くて仕方がなかった。私はまだ淡い全能感を抱えている。もちろん、これまでに何度も心は折れてきたが、それでも、まだ私に対する期待は消えていない。
例えば、私はかつて音楽科の高校に通っており、音楽大学あるいは芸術大学に進学するつもりでいたが、結局諦めてしまった。しかしながら流れ着いた先は京都大学であり、夢破れたとはいえ帝大生的なエリーティズムを抱いていることは否めない。
自分にはたくさん選択肢があると思ってしまうし、能力もあると思っている。ゆえに、これから先の生活に関して高望みしていること自覚している。この感情が来年から始まる就職活動で打ち砕かれた時に、私は挫けずにいられるだろうか。
正確にいえば、挫けても立ち直ることができるだろうか。凹んでもご飯を食べることはできるだろうか。失敗を引きずって卒業を逃してしまわないだろうか。正直なところ、自信があるとは言い切れない。
今できることは、そのような困難の渦中にいるときに、悩みを聞いてくれる友人を作り、帰ることのできる居場所を作ることくらいしかない。
もう一つ感想。議論の本質とは関係ないのだが、私はどうやら「モンスターペアレント」、「モンスターペイシェント」、「パラサイトシングル」というラベリングに抵抗を感じるようだ。本書とは関係ないが、「ウヨ豚」、「糞フェミ」などという用語にも、私は抵抗を感じる。
この抵抗感はきっと、ラベルから漂う攻撃性に起因している。怪物や寄生虫という用語の持つマイナスイメージや、豚や糞という用語から感じる罵倒の調子が気に食わないのである。
という話を、お昼の寮食を食べながら友人とすると、「それらの用語は、人ではなく現象を指しているのではないか。また、実際のラベル名は置いといて、名前をつけるという行為自体は問題を可視化するという意味で価値あることだろう」といったコメントをくれた。嬉しかった。
本を読んで思ったことを持っていって人と話せば、それは読書会になるのだという気付きを得た。いい日だ。
片田珠美 (2010), 『一億総ガキ時代 : 「成熟拒否」という病』, 光文社