責任の所在という問題について。(76 ~ 79頁)
私は「共同体意識の中に存在する個人」という構図で、自治空間において発生する責任感との距離感をいかにして取るかというテーマの小論を書いた。ある先輩や加藤典洋は日本の戦後責任を非当事者世代がいかに引き受けるかというテーマを論じた。本書では、マイノリティに対して、マジョリティである人間が引き受ける連帯責任という構図を扱っていた。テーマとしてはある調査地に研究者として入る者自身の眼差しと心構えであった。今年のゼミ論文テーマに重なってきそう。
大衆は不勉強で知識はないが、彼らなりの世界観の中で選択して行動しており、バカではない。しかし左翼や社会学者は大衆をバカだと見下し、自分たちの主張を理解してくれないと嘆き、立ち止まっている。危うい状態である。(146, 147頁)
この態度はどこから生じるのだろうか。
私が音楽科の高校にいた時の話である。どうやら吹奏楽部の部員がドイツ音名でやり取りをし、「こんなこと自分たちしかわかんないよね」といっていたらしい (ちなみに、よく使われるドレミ…という音名ははイタリア的である) 。これを聞いた音楽科の同期は、「自分たちだってその程度のことは知っている。なんならもっと高度な音楽理論も知っている。何を知った気になっているんだ。」というようなことを言っていた。
ここには二重のエリーティズムが見られる。吹奏楽部員は「一般人が知らないであろう」音名に関する専門的な語法を使っていることについて、音楽科の同期は「吹奏楽部員ですら知らない」音楽的な知識を有していることについて、卓越性を感じ、同時に、下位として映る存在に対する侮蔑の感情も抱いている。
この断絶はなんだろうか。
現在の社会に対して、日々右や左の極端な意見が飛び交っている。しかしながら、市井に生きる多くの人々は普通に暮らしている。とはいえ、この「普通に暮らす」ということはナチスのきっかけにもなると言える。ただし、付言しておくと、この条件があるからといって即座にナチスを招くわけではなく、実際に決定的だったのはクーデターである。(150, 151頁)
現在、ハンナ・アーレントの『活動的生』を扱った学術書を読んでいる。そこでは、安定的で存続的な使用対象物を制作し、世界を重んじる古代ギリシアの価値観から、消尽しなければその価値を発揮しえない財を消費し、流動的な生命を重んじる資本主義的な価値観へと、人々の関心が変化してきたこと、そして、結果として全体主義を招いてしまったことが述べられていた。
私は、困ってしまった。私の関心は、この私、そして身の回りの大切な人と幸せに生きていく「生命」に向けられている。この態度が全体主義予備軍的であるのだと言われると黙るしかないのである。
社会学者は、異質性に関心を抱く。その異質さが生じる原因への好奇心から研究を行う。しかし、その原因というものへの人為的な介入はしばしば困難である – 例として年齢や性別などが挙げられる – 。この介入不可能性を経済学者は批判する。経済学者は、同じグループを二つ用意して、どのような介入を行うと結果が変わるのだろうかというところに関心を抱く。(190, 191頁)
ケインズの『一般理論』の読書会に参加している。この書籍の中で彼はまさしく、経済状況を決定し、かつ、政策的な介入が可能な変数を発見しようとしている。彼の分析は現状の把握より先を志向している。
心理学や経済学は「人間」を相手にする。社会学は「集団」を相手にする。社会学者は、ある計量的な研究によって導き出された結論が、他の時代や場所で通用するとは思っていない。それは、たとえ同じ名前の変数 (例として学歴が挙げられる) であったとしても、その変数の持つ意味合いが両者において同等であるとは言い切れないためである。(242, 243頁)
私が現在関心を抱いているのは社会病理 (このラベリングの「上から目線さ」についても述べられてはいたが…) である。まだどのような問題を扱いたいたいのかについて決めきれていないが、加えてどのような学問的視座からどのような方法論で検討したいかということについても決めきれていない。本書では近接学問の性質の違いについてメタ的に論じられていた。読んだ感じなんとなくしっくりくるのは計量社会学的手法のようだが、あいにく私は数学が苦手だ…どうしたものか。
他者の合理性を理解するということは、責任を解除することである。例えば、凶悪殺人犯にインタビューして、彼の生い立ちや犯行時に置かれていた状況などを踏まえて、可哀想だ、仕方がないなと述べることは可能である。しかし、その論理で際限なく進んでいってしまっていいのだろうか。どこかに超えてはいけない線があるのではないだろうか。その線は誰がどのような基準で引くのだろうか。(264, 265頁)
最近『まなざしの地獄』や、『プリズン・サークル』を読んだ。双方ともに加害者にスポットが当てられている著作である。両書を読む中で、私は加害者の「合理性を理解」し、「責任を解除」した。そのことに抵抗感を抱いてはいなかった。彼らだって「やむにやまれず」そうしてしまったのだな、と。こうした私の態度に対して鋭く切り込む主張であったために、やや面食らった。
学説史はかつて理論の歴史として存在していたが、現在、とりわけ経済学史は、先端的な理論研究から必要とされなくなる中で立ち位置を見失い、思想史や歴史学へと接近している。科学史の影響もあり、理論偏重ではなく、実証研究の歴史も必要であると主張されるようになってきている。(305, 306頁)
京都大学には経済学史を専門とする教授が一人しかいない。この現状はその様の現れであろうか。個人的な主張だが、経済学史が本流を張る必要はもはやないのかもしれないが、しかし、それを後代に伝えるものがいなくなるのは一大事だと思っている。
岸政彦, 北田暁大, 筒井淳也, 稲葉振一郎 他 (2018), 『社会学はどこから来てどこへ行くのか』, 有斐閣