恋愛のことで凹んでいた日に手に取った本。この5月に名大出版から出たハルワニの哲学書を読む予定があり、関連本として挙げられていたので読んでみようかとなった。
古代ギリシアの恋愛は、もともと一つであった者同士が片割れを強く求める形で現れる。プラトンのイデア論に基づくと、少年を愛するのは、イデアの世界を愛する心の発露に過ぎないとされる。知的な探究と色恋沙汰との交わりという点に特色がある。
古代ローマの恋愛は、男性が対象を戦利品として獲得するような、粗暴な者である。特筆すべきはオウイディウスの恋愛観であり、男性中心主義や女性蔑視を見てとることができる。家族制度を維持するために姦淫は御法度とされていたが、奴隷との性関係も存在しており、混沌としている。
キリスト教の恋愛観は、性欲を-とりわけ女性のそれを-抑圧する。子どもを成すことを目的としない、避妊を伴う性交や自慰を否定し、性的な交わりを夢見る女性は魔女として捌かれる。この過度な恐れ、あるいは処女懐胎に見られる過剰な純潔信仰は、女性の持つ魅力の裏返しでもある。
中世宮廷恋愛がレディ・ファーストの文化を生み出した。当時の結婚は政略的なものに過ぎず、真実の愛なるものは浮気の関係に見られるものであった。それは、領主の妻といった高位の女性に対して、下級騎士が忠誠を誓うといった形で現れるような、精神的で理性的な恋愛関係であった。
旧来の社会的規範を破壊するような、個人主義の発展と革命の実践は、世界が「あなた」に収斂し、「あなた」が神の域まで拡張されるといったロマンティックラブの概念と共鳴しつつ発生した。その世界観は私という主体が展開する幻想的な世界に大きな価値を置くものである。情熱的な恋愛をし、結婚して家庭をなし、子を育てるというイデオロギーは、現代においても大きな影響力を持ち続けている。
大正期から明治期にかけての日本では、積極的に西欧文化を取り入れようとする動きが見られた (なお、一方では日本中心主義も見られた) 。そのヨーロッパ・コンプレックスの一つの現象として、恋愛概念の輸入がある。しかしながら、ヨーロッパで発生した反理性主義や個人主義の歴史的な文脈を人々の間で共有することは不可能であったため、日本的な解釈の域にとどまるものに過ぎなかった。
ロマンティックラブの系譜を継ぐものとしてスタンダールが挙げられる一方で、恋愛を否定する存在としてプルーストが挙げられる。後者は、恋愛というものはイデア的なものへの憧れであるために、現実には成就せず、創作物の中で叶えるしかないとのべる。またフロイトは恋愛感情は親に対する無意識の情念を転移しているものに過ぎないと説明し、これまでの議論を大きく転換した。
大正から明治にかけての恋愛受容において述べられたように、個人主義の存在しない日本においては本来の持つ意味合いとは異なる形で恋愛なるものが受容される。その発露こそが、萌えキャラなるものである。個たる主体性を欠いたままに、テンプレ化したコミュニケーションの型に、「かわいい」などの属性を付与する形でキャラクターが作られるというわけである。
以下感想
ヴィクトリア朝期には、テーブルの脚やピアノの脚は、女性を連想させるからいやらしいとされていたらしい (114頁) 。現在においてもポリコレだ言葉狩りだなどなどあれこれあるが、こうした大真面目な無茶苦茶感はあんまり大差ないように感じる。
理性的な恋愛の作法としての「口説き」の具体例が挙げられていた (167 ~ 169頁) 。一種のコミュニケーションの型なのであろうが、ツイッター上で互いに揚げ足をとってレスバしているのと似通っているように感じた。不毛だと見ていたが、ああしたじゃれあいも本人たちが楽しんでいるならまあいいのかもしれない。
「我々は恋人の前では幼児化するのです」(293頁) 。その通りすぎて、恥ずかしい。
鈴木隆美 (2018), 『恋愛制度、束縛の2500年史-古代ギリシャ・ローマから現代日本まで』, 光文社