なかなか大変な映画だった。この作品『A』1は、地下鉄サリン事件後のオウム真理教に密着したドキュメンタリーなのだが、内容に対して思考がぐるぐるしてしまったのに加えてカメラワークに酔ってしまって、半分を過ぎたあたりからずっと吐き気を堪えて見ていた。
「その人が幸せなら、それでいい」で、一体どこまで行けるのだろうか。
私には自覚的な信仰心がない。したがって、他者の信仰心を理解することはできない。きっと敬虔な〇〇教徒にとっても、そんな私は理解できない存在として映るのだろう。でも、お互いがそれぞれに幸せなら、別に理解できなくていなくたっていいじゃないか。私の信教に対する立場はこのようなものである。
では、同じことをこの映画に登場するオウムの信徒に対しても思うことができるだろうか。これがなかなか難しく、簡単に「はい」とは言えない。食に対する執着を無くそうとし、身体に負荷のかかる修行に身を投じ、仲間たちと家族のような共同生活を行う彼らに、にこにこと、あるいは真剣に、その尊さについて語られたとしたら、私は沈黙するしかない。
私が、「美味しくご飯を食べてはどうだ」、「社会的な不正義に対してそこまで胸を痛めなくてもいいのではないか」、「清廉潔白であるために自罰的にならなくてもいいのではないか」、「いずれくる別れは辛く苦しいものかもしれないが、束の間の幸せに浸かったっていいじゃないか」などと言ったとて、なんら意味はないのだ。両者の主張は、ともに「あなたはそうかもしれないが、でも私は……」という形に帰着し、立ち現れてくる平行線を眺めて終わることになるだろう。
「その人が幸せなら、それでいい」のだろうか。答えは見つからない。
見ている間に、私の立場性が曖昧になっていき、あらゆる視点を意識して訳がわからなくなってしまった。とても気持ち悪かった。
この作品はオウム真理教の広報幹部である荒木浩を中心に撮られたものである。スポットが当たり続けている彼に対して、感情移入とまではいかなくても、私の心が傾いていくのを感じた。いい画を撮ろうと寄ってくるマスコミや、転び (というより転ばせ) 公妨をふっかける警官などには呆れ、嫌悪感すら覚えた。破防法の適用について反対行動を行う人々 (おそらく大学職員?) は稀有な人格者として映った。
ただ一方で、地下鉄サリン事件という惨劇の同時代に生きた人々の恐怖はいかほどだったであろうか、とも思う。正当な手続きなどといったまどろっこしいことはどうでもいいから、とにかく危険を排除してくれという感情を抱いて当然だと思う。しかし、オウムの人々をゴミ集団と罵り、彼らに人権などないのだと主張することについてはやはり抵抗感を抱かずにはいられない。
こうなってくると、いったい私はどのような立場でありたいのか、わからなくなってくる。結局その日はもやもやとしたままであった。
翌日読んだ『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(綿野, 2019) に、手がかりとなるような記述があった。「人格には、お互いを尊敬して扱うように要求する価値、あるいは固有の尊厳があ」り、「すべての人格に備わる固有の尊厳と価値は、人々の持つその他の特徴によって変わることはない」2。「そして、差別とは「貶価すること (demean) 」=「他者を不完全な人間として、または道徳的価値を持たないものとして扱うこと」である」3。
私の立場は、差別行為の背景にある恐怖や不安には同情するが、それぞれの人が持つ尊厳を否定しようとする態度には断固として反対する、というものである。
映画内で、ある女性が荒木に対して「あなたを応援している。オウムを、ではなく、あなたを。」といったようなことを発言していた。私の取りたい態度はこのあたりにある気がする。
『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(岸 他, 2018) において、他者の合理性を理解することは、他者の責任を解除することであるが、しかしどこまでも際限なく解除していいものだろうかという問題提起がなされていた4。重い問いかけである。『A』を鑑賞して、改めてそう感じた。