久しぶりに大学の授業に出た。シラバスに中間試験があるとの記載があったものの、詳細についてはよくわからない科目だったので、初回のガイダンスを受けといた方がいいだろうなという弱い動機に渋々付き合って自転車を漕いだ。授業前のざわざわとした空気感は相変わらず苦手なままだったけれど、いざ始まってみればなかなか刺激的な授業だった。NASAのスペースシャトル事故である「コロンビア事件」はなぜ起こってしまったのか、というテーマでなされていた組織の意思決定についての議論は、面白くも感じつつ、あまりに痛ましい内容に具合が悪くもなってしまった。それでも、出席して良かったと思える内容だった。
いかにしてフィクションを書くかについて、最近頭を悩ませている。
寮の先輩からテクスト分析に関する本をお借りしている。ずっと借りっぱなしでいるにも関わらずちまちま読み進めてしまっていることを申し訳なく思いつつ、じんわり楽しませていただいている。数日前、分析対象として全文収録されている森鴎外の短編を読んだ。舞台は江戸時代、流刑に処された罪人とその監督者の会話が描かれているのだが、丁寧な資料調査が行われてるのだろうなと感じるような骨の太さと肉付きの良さ、そして目を離せなくするような語り口と内容に圧倒された。
今はまだ、取材や調査を行った上で書こうというほどには執筆欲が高いわけでない。それでも、「私」の枠を超えたいという気持ちはあったので、試しに生活史を読みつつ筆を取ることにした。私でない他者の生を覗き、その他者になったつもりで物語を作ることは、ささやかな他者理解の営みであると言えるのではないだろうか。岸政彦さんの『東京の生活史』を適当に開いてみて、印象に残った部分のエッセンスを抜き出して書いたのが「沸騰」というフィクションである。楽しかった。またこの方法でやりたいと思う。