241103 : 濡れた袖

日記

日当直のバイトをしている日のこと。かかってきた電話を取ろうと受話器に手を伸ばした時、卓上に置かれていた回転式のゴム印に右の袖が触れてしまった。あいにく今日着ている服は白のロンティーだ。嫌な予感がする。すぐに袖を確認したい気持ちに駆られるが、根が真面目なためなのか、けたたましい着信音の不愉快さのためなのか、それよりも先に受話器を手にとって外線ボタンを押していた。気もそぞろなままにやり取りをしつつ、袖口を確認する。やはり黒いインクがついてしまっていた。ほぼ自動的に先方への対応と、他部署への転送・引き継ぎを済ませて電話に蓋をした。

実は前々から危ないとはうすうす思っていたのだ。ちくしょう、ゴム印め。箱からティッシュを一枚引っ張り出して、憎々しいそいつに被せてやった。これで直に触れてしまうことはない。あーあ、前からこんなふうに手を打っておけばこんな事態は避けられていたはずなのに。たかだか二千円程度の安い服だとはいえ、どうしてもがっかりしてしまう。

幸いにも軽くしか触れなかったので、致命傷にはなっていない。流しに備え付けてあるハンドソープを件の場所に染み込ませて水で洗い流すと袖は元の白さを取り戻していた。成し遂げたという快感に包まれながら服の吸った水を絞る。

さてさて元いた席に戻ろうと歩みを進めた時。ずしりとした重みを感じる。ひょっとしたら体はほのかに右側に傾いていたかもしれない。そのくらいに水分を吸った袖というのは重いものであった。

しめた、これはいい比喩表現になるぞと思ったので、メモアプリを開いて「濡れた袖のような重さ」という題を設定し、先ほどのエピソードを短めに書き込んだ。

服の汚れもさっぱり無くなり、いずれ使えるかもしれない言い回しも手に入ったとホクホクしていたけれど、それも束の間だった。不快なのだ、濡れた袖というのは。べったりと張り付いてくる感触、鈍い重さ、ずっと続く肌の湿り気。その不快感に脳のリソースが常に割かれてしまう。勘弁してほしいものだ。

ふと考えてみる。服が濡れてしまうとその不快さで頭が一体になってしまうが、そのことで私の意識は目の前の事象からズレてしまう。この現象を何かのエピソードに落とし込めやしないかと。例えば喫茶店。あるカップルがいる。これまで小出しにしつつも不満を募らせ続けてきたAと、また同じ話かとうんざりするB。耐えかねたAは手元にあった水の入ったコップの中身をBへと勢いよくかける。静まる店内。Aは荷物を手に取り、肩をいからせながらカツカツと店外へ出ていく。このような状況を考えてみる。

多分BはAの振る舞いに怒るよりも、慌てるよりも、濡れた不快感をしばらく味わうのではないかと思う。そのくらいにBはBでうんざりを募らせてきているし、冷めていそうである。だから、どうするかなあと今後行われるであろうAとのやりとりに想いを馳せつつ、濡れた服の重さにげんなりすることになるのではないだろうか。このBの振る舞いは倫理的な基準から言えば多分ズレている。待ってと言って血相変えて飛び出し、店員さんに会計がまだだと呼び止められる人間の方がいいやつなのだろうが、多分そんな人間はAをこれほどブチギレさせる前に何らかの手を打ってきているだろう。だからこのある種ズレた感覚の方に私は自然さを感じるのである。ただ困ったことに、この話は致命的に面白くない。全く魅力を感じられない。

うーんと唸ってはみるが、一日中本を読んだり物を書いたりしてすっかり疲れてしまっていたので、さっさと作業を切り上げて夕食をとることにした。食べるは冷凍食品のナポリタン。おともは最近アマプラで配信されたゴールデンコンビ。だらだらともぐもぐしていた。

ふと思いついた。それは、やっぱり水をかけられてAに逃げられるや否や血相を変えて飛び出すBを考える方が面白いのではないかということだった。先の話は、「水をかけられるというショッキングなことが起これば即座に心を揺さぶられて動く人間こそ規範的・倫理的存在だよね」と私が私の中で規定したことに対して、「そんな人間いなくねえか。そんなシチュエーションになるまでの蓄積があるならとっくに冷めているだろうよ」と私が勝手に反駁していただけである。ここから、あの面白くなさは、話が全部私の中で閉じているところにあったのではないか、と考えることもできるのではないか。それなら、私の感覚からズレた、「水をかけられてAに逃げられるや否や血相を変えて飛び出すB」が成立するフィクションを考える営みの方が、私にとって心踊るものになるのではないかと思ったわけだ。結局一周回って元に戻っただけとも取れるが、この一周回るところにこそ価値があるのだと思いたい。

そんなことを考えていたら、ナポリタンが跳ねていたようでシャツには四つの赤い斑点がついていた。水分量の多いパスタは難しい。情けない気持ちになりながらシャツを洗ってざっくりと汚れを落とした。明日帰って洗濯することで落ちたらいいけれど、どのみち首元もよれってきているから無理せず買い替えてもいいなあ。ちまちまとした洗濯作業が終わったとき、ふと右袖の水分がどこかに行っていることに気づいたのだった。