月に一度、人文研の教授による講読会に参加している。扱っているのはエルンスト・クルトという音楽学者の『ワーグナーの《トリスタン》におけるロマン派の和声法とその危機』というドイツ語文献である。今回もいつもの如くドイツ語が読めないながらに皆さんの話を楽しく聞いていたのだが、途中からは単に楽しいとも言ってられなくなってしまった。他人事だと思って聞いていた話が突如として自分のこととして降りかかってきたのだ。
議論は次のようなものであった。ロマン派とはいかなるものなのだろうか。クルトによれば、彼らは自意識過剰で、外に憧れているように見えて実際は自分の内面に溺れている。光を嫌って夜を好み、達成し得ない目標を立ててはそれを追いかけ、現実のはるか彼方へと駆けていこうとする。しかし、同時に極めて理性的である。歴史を参照して自分の立ち位置を確認し、自己崩壊に陥ってしまうほどに内省する。そして、その中で得た気づきを演劇的に外へ発信しようとするのである。
このような議論をしばらく行った後で、教授はロマン派を簡潔に表現した。曰く、「私ってこんな人なんだ」をえんえんと喋り続ける、考えすぎな人たちのことである、と。若い皆さんの周りにはそんな人がそれなりにいるんじゃないですかと問いかけられて、私は苦笑いするしかなかった。あまりにも私の話すぎたのだ。
恋人は私を次のように表現する。曰く、浮き沈みが激しく、極端かつ衝動的で、依存しがちで視野が狭く、しばしば空気が読めず、そしてそれらを自覚している人である、と。ちなみに、ピアニストである恋人は、ロマン派の音楽があまり肌に合わず、バロックや近現代の作品の方が好みだと言う。なるほど、関係性の維持が難しいはずである。
人前で自分の頭を柱に打ち付けるような真似をしないように、会話において自分のことを喋りすぎてしまわないようにと心がけてはいるものの、意識してしまわないとそうなりかねない時点で、そしてこんな文章を書いて人に読んでもらっている時点で私は浪漫主義者なのだろう。神経症を拗らせすぎずに、少しでも健やかに暮らしていきたいものだが、なかなか前途は多難なのかもしれない。