共同書庫さんでのイベント、「韓国・〇〇・日本を読む」会の企画、「『日常の言葉たち』を日本語で書いてみる」にお邪魔して書いてきました。書いた文章を読み合って喋るのは楽しい。
テレビ
テレビは非日常。私が幼い頃に、離乳食を食べながらテレビに興味津々で、ボロボロこぼしたんだか、食い気味に見過ぎて箸が進んでいなかったんだか知らないけれど、怒った父親がテレビを段ボールに片してしまった。以降家庭にテレビはない。祖父母の家に行くとテレビとパソコンがあって、わくわくしていたのを覚えている。
小学校での友人たちの話題はテレビについてのあれやこれやが多くて、あのバラエティがどうのとかドラマがどうだとかいう話が飛び交っていてもよくわからなかったけど、あまり寂しくはなかったような気がする。ワイワイしている空気を吸ってにこにこしていた気がする。それに対して、今は私が知らない話で盛り上がられると面白くないと感じる。いつからこうなったんだろうか。わからないな。昔は多分、「テレビを知らない」という自分の希少さを誇らしく思っていた。そんな節がある。私はそういう子だった。孤高の私を楽しんでいたのだと思う。
家にテレビがなくて良かったと、受験期には感じていた。だって刺激が多すぎるんだもん。私はよくぐったりしているけれど、ぐったりしているときにテレビって悪魔的な相性の良さを発揮してくれちゃうから、永遠にぐったりできてしまう。そんな際限のない端末がなくて良かったと、スマホも持たず、勉強用のタブレットには親に頼み込んで機能制限をかけていた当時は思っていたけれど、解放された今はあらゆる端末がそれを代替してくれている。
最近談話室にテレビが導入された。どのチャンネルで何が再生されているか知っていたり、どの番組をみたいとか言って盛り上がったりしているみんなに少し疎外感を抱くこともあるのだ。そんな画面にみんな食い入ってないでさ、もうちょっと私に関心を向けてよ、話そうよって寂しくなったことが、最近あった。寂しがり屋がすぎるね。1人で作業をするなり、一緒に番組を見て手を叩いて笑ったりすればいいのにさ。
本
本は好きだけれど、好きだということには少し恥じらいを感じる。「最近はどんな本を読んだの?」、「どんな本が好きなの?」と問われたときに、読んだ本を並べ立てるような答え方をしてしまうことがしばしばあって、その度に、発した自分の声を聞きながら情けないなと思う。読んだ本を積み上げること、本棚に並べる本の数を増やすこと、そこに達成感を持ってしまう自分があまり好きでない。本を数として、量的なものとしか捉えられていなくて、貧しく思う。けれど、そうしてしまうことが多い。最近、あまりゆっくりと本を読むことができていない。いつもどこか焦っていて、本を読んでいるときにも読まなければならない本に思いを馳せてそわそわしてしまうのだ。ゆっくり本を読みたい。
図書館や本屋が好きだ。ものとして美しい本がたくさん並んでいるとそれだけで嬉しくなる。大学図書館の蔵書検索をしている時間も好きだ。こうした好きの気持ちは、多分コレクションの欲求なのだと思う。
本を読むのは、それをネタに人と喋りたいからだったりする。読書会があるから、気になる素敵なあの人とお話ができる。あの本を読んだから、「私もその本を知っています」と話すことができる。これは、とても道具的な読書で、本分から言えばズレたものなのだろうけれど、こうした背伸びをしている自分を可愛いと思ったりもする。
そういえば、小学生のときに「物語を作ろう」の課題があった。私は当時大真面目に、図書館をモチーフにした、今思えばあまり面白くない物語を原稿用紙に書き殴っていた。主人公の名前を覚えている。名は「小夜時雨」だった。いかにも小学生が好きそうな語感だと、「さよしぐれ」の自動変換の結果を見て少し笑った。小学校のときは図書室に入り浸ってた。物語世界に胸を踊らせることが好きだったし、司書の先生から「本の虫だね」と言われて得意になっていた。得意になっていた言ってしまうと当時の自分を馬鹿にしている感じなるけれど、ちゃんと本は好きだった。『獣の奏者』を読んで最終巻のグロテスクさに具合が悪くなったことも、『ぼくら』シリーズの生々しい殺人とかぐちゃっとした人の感情に触れて夜のトイレに行くのが苦手だったことも、友人に勧められた有川浩の『植物図鑑』をセクシーさにもじもじしながら楽しんだことも、『4と1/2探偵団』が日本では5巻までしか訳されていなくてドイツ語を勉強しなきゃと思ったことも、覚えている。そのくらいには本が好きだった。
あとは、漫画が好きだった。実家には段ボール8, 9箱分くらいに詰め込んだままの漫画がある。お小遣いがない家だったから、お年玉を計画的に使って毎月新刊を4冊ずつくらい買っていた。ジャンプっ子だったけれど、なんとなく本誌を買うとかさばってしまうし、単行本の方が綺麗で、揃えてうっとりできるものだったから、とうとう雑誌を買うことはなかった。幼稚園生の時はピッコロさんが死んで涙して、父親に泣きながら報告した。ドラえもんの教育系漫画シリーズは漫画部分しか読んでいなくて、細かな文字で書かれている解説には一切目を通さなかった。祖父母が賢い子だと褒めてくれる理由はしばらく理解できなかった。「だって読んでるのはドラえもんの漫画だよ?」って。
人の読んでる本って気になる。以前「何読んでんの?」って聞いたら、その子に対してこれまで聞きすぎてしまったいたようで、少し嫌がられちゃった。ごめんね、もうしません。
待つ
待つって、すごいことだと思う。子どもがご飯を待つことができるのは、保育園で親を待つことができるのは、その先でご飯を出してくれることを、迎えに来てくれることを、確信できるからなのだと思う。そうじゃなきゃ、待つなんてできない。その先への信頼があるからできる、すごい行為だと思う。私が結局うまくいかなかったのは、待つことが途方もないことのように感じられてしまって、心が折れてしまったから。悲しいけれど、仕方のないことだと思うことにしている。
待ち合わせで人を待つことも、遅れた電車を待つことも、嫌いではない。本を持っていれば、イヤホンを持っていれば、時間なんていくらでも過ごせると思っている。でも、そう思えるときは私の心に余裕があるときだけで、何かに追われているいるときはじれったさにイライラしてしまう。待つことができないときに、私の貧しさに悲しくなるけれど、それはそれでその時の自分にとっては仕方のないことなのだろうなとも思う。けれどそれを許せないのもまた仕方のないことだと思う。
終わりを待つの待つは悲しい。小学校から大学まで、私は大抵授業の終わりをずっと待っている。終わらなければいいのにと思った記憶はない、気がする。これは最近の記憶に上書きされてしまっているだけのような気もするけれど。時計をちらちらと見ながら、腰や首の痛みにげんなりしている時間は嫌い。こういう待つは嫌い。
文字でのやり取りは苦手。言葉を尽くそうと思うと何度も確認しないといけなくて、その強迫性にすごく疲れてしまう。それでも、LINEの返信は速い方だと思う。それは、よく開いてしまうから。手持ちぶさたな時間があればすぐに確認してしまうから。だからLINEに関して言えば、私は待っている時間が長い。既読がつくのを、そこから返事が来ることを、ずっと待っている。待ちの度合いがすごくなると、あまり何も手につかなくなってしまう。何をしているのって聞かれて、「待っているの」と答えたくなるくらい、誰かを待っているだけで何もできないままに時間が過ぎていくことが、よくある。逆に、メールとか紙の手紙は待たせてしまうことが多い。それを用意するにはLINEよりも気合いが必要だから。そして、待たせてしまっていることに申し訳なさを感じて疲弊してしまう。あるいは、返さなきゃいけないの念に苦しくなって疲弊してしまう。だから、やり取りをする相手があまり多くない方が健康的だと思うのだけれど、返信に追われている人を見ると、そうでない私がひどく寂しく感じられるからなんなんだよと思う。面倒くさい、私。
2024年の年末に曲を書いて投稿した。タイトルは「待つ」。内容は、歌詞を練るけれどなかなかいい言葉が出てこないなあと悶々と散歩する人の話。あまり練らずにスッと出てくる言葉とか旋律とかの方がいいものなのだとは思うけど、口ぐせとか手ぐせでやりすぎると似たり寄ったりになっちゃうから、こねくり回すことが多い。そして結果として、最後の1ピースを待つんだと言って半年以上眠らせている曲が……。ひどいと4年くらい寝かせている。この場合、「待つ」は逃げの言葉。今年は積んでるデモを完成させるか思い切って捨てるかする一年にしたい。待ってばかりじゃなくて、とりあえずこちらから手を伸ばして触れるところまでを形にしたい。