夜、駅の構内にある本屋で平積みにされていた文庫本を手に取って、樹は考えていた。どこかで耳にしたことのある作者名だと思うが、誰の口から聞いたものか思い出せない。樹は普段本を読まないので自分で知った名前だとは思えず、誰かが口にしていたと考えるのが自然だけれど、全く検討もつかないのだった。
樹はつい先ほどまで高校の友人、晶と酒を飲んでいた。大学のサークルでの人間関係がぐちゃついたのち、どんよりしている間に留年が確定した樹とは違って、卒業も内定も確定させた晶はこの春にこの地を離れるということで、その前にと先日誘いをもらったのだった。
樹と晶は高校一年生の頃からともにバスケ部に所属していて、3年生のときは同じクラスで一年を過ごした。2人は性格が違えど不思議と馬があって、よく一緒に昼ごはんを食べていたし、家の方向も近かったので部活後には喋りながら帰った。
晶はいつも、樹が少し届かないところにいた。部活のトレーニングでも、テストの点数でも、常にすんでのところで及ばないのだ。また、同じバンドの曲を延々と聴き続ける樹とは違って、晶は色々な曲を知っていた。気が付けば樹のサブスクのライブラリは晶が紹介した曲が半分を占めるようになっていて、それを悔しく思いつつも、どれもいい曲だから消すのは惜しくて、じわじわとその割合が大きくなり続けたのだった。
2人は違う大学に通うようになったので、樹は晶の影響下から少しずつ脱しつつはあったけれど、ときたま彼がストーリーで紹介している音楽はやはりいい曲ばかりで、ライブラリにはしぶとく晶のおすすめ曲が追加され続けるのだ。どんな曲を聴いているのかと人に聞かれたとき、晶の言っていた曲を挙げてしまうのが嫌だった。けれど、樹の好きな曲はやはり晶に教えてもらった曲ばかりだった。
大学の長期休みの2回に1回は晶がご飯に誘ってくれた。食に無頓着な樹と違って晶は美味しいお店をよく知っていたので、毎回晶の選ぶ店に行って近況を話した。晶との会話はどこか刺激的で、いつも話して良かったとは思うものの、別れた後に何故か凹んでしまうのがお決まりで、その度にコンビニで買った安い紙パックの酒を飲んで眠りにつくのだった。
今日の飲みも似たような感じで、一緒にいる時間は楽しかったけれど、別れてしばらくすると空虚さがじわじわと迫ってきた。駅のホームただ電車を待つことはとてもできそうになかったので、なんとなく本屋で時間を潰すことにしたのだ。
文庫本のコーナーを歩いていてふと目に留まった表紙をよく見ると、どこかで耳にしたような作者名だった。誰が言っていたのだったか。手に取ってしばらくぼんやり眺めているうちに、もしかしたらいつだか晶が口にしたものだったかもしれないと思った。樹はじっとしているのが苦手で本や映画を見ない。それを晶もわかっていたので、映画や小説についてはあまり話題には出されなかったけれど、いつだか樹が興奮気味に小説の話をしていた気がする。もしかしたらそれかもしれない。
もちろんそうじゃないかもしれない。人見知り気味な樹といえども、大学に入って交友関係は広がったのだ。そこで聞いただけの話かもしれないし、できればそうであって欲しい。でも、やっぱり晶だったとしたならいよいよこれは呪いだ。
冗談じゃない、ひどい話だ、勘弁してくれと思うけれど、それでも結局その本を手に取ってしまっていた。いっそのこと死ぬほどつまらなくあってくれと願いながら、樹はレジへと足を向けた。