伊織は実家に帰省し、自室の押し入れをごそごそと漁っていた。かつて引っ越したタイミングで段ボールにしまいこんだ以来、引っ張り出していなかった漫画を無性に読み返したくなったのだ。小中学生のときは漫画狂だったし、親戚からも読まなくなったものをたくさんもらっていたので、段ボールの数も多く、目当ての作品を探すのも一苦労だった。4箱ほど開けてみたけれど見当たらず、5箱目の封を開けてみると、しぼんだ水色の風船が出てきた。
わざわざ段ボールに入れるだなんてそんなに大事なものだったのだろうか。なんだったかなと取り出してしばらく眺めていると、そういえばと小学生のときの夏祭りを思い出したのだった。
伊織は親の都合で引越しの多い子どもだった。ある春に転校したその小学校の同級生たちは、がちゃっとしている子ばかりで、悪いやつらではないのだけれどどことなくとっつきにくく、すごく親しい友人ができるでもないままに夏休みに突入してしまった。友人はそんな感じだし、親は親で少しばたばたしていたけれど、地域の夏祭りにはなんとなく心惹かれたので、伊織は誰に誘われるでも誰を誘うでもなく1人で出かけることにした。
きらきらした歩行者天国でいちごのかき氷を買って食べながら歩いている最初の方は、ふわふわとした高揚感を楽しんでいたけれど、次第に寂しくなってきた。周りは家族や友人たちと連れ立ってわいわいとしていただけに、多くの中で1人ポツンといる自分が惨めに思えてきたのだ。
とぼとぼと大通りを離れて小さめの裏の路地に入ると、そこには仄かに光る提灯を1つだけぶら下げた露店があった。さっきまでの賑やかさとは打って変わって客も見当たらず、今思えば怪しいことこの上なくて小学生1人でいくには危ない気もするのだけれど、当時の伊織はあまり迷うでもなく電灯につられる羽虫みたいに、ふらふらと引き寄せられたのだった。
白い髭と髪とが長いくたびれた格好の爺さんが、座ったまま寝ていた。ござの上にはどこで仕入れたのかよくわからない、馴染みのなく得体の知れない小物たちが煩雑に並べられていた。前の持ち主がいたとしか思えないほどに薄汚れたそれらを伊織は物珍しく眺めていたけれど、ふと端の方に置かれている水色の風船に目が止まった。値札をみると「50円」と書かれていたのだけれど、より気を引かれたのは「どこかへ連れて行きます」という文言だった。膨らませて捕まったら、どこか知らない場所に運んでいってくれるということか?まさか、そんなわけないだろう。そう思いつつも、ひょっとしたらの思いを捨てきれず、寝息を立てる爺さんに声をかけた。ぼんやりと目を覚ました爺さんに、「本当にどこかに連れて行ってくれるの?」と聞くと、静かに無言で頷くだけで喋る気配はなかったから、財布から50円玉を取り出して風船一つと交換した。
家に帰る道中、公園のベンチで少し考えていた。膨らませてみようか、どうしようか。どこか知らない場所はすごく楽しいところかも知れない。そう思うけれど、少し怖くて、なんだか踏ん切りがつかなくて、結局その日はそのまま家に帰った。
夏休みも後半に差し掛かったある日、伊織は母親と喧嘩した。夏休みの宿題に一向に取り組む気配を見せない伊織に、とうとう母親が業を煮やしたのだった。伊織はあまり勉強が好きではなかったから、嫌になって逃げ出そうとした。そのとき、そういえばあの風船があったと思い出して、一旦自室に駆け込み、机の上に置いていた風船を手に取り、靴を履いて玄関を飛び出して、外へと走ったのだった。肩で息をしながら公園で風船を膨らませた。どこかへ行きたい。親も友達も、学校の先生もいないところへ行きたい。探偵を雇ったって、風船に捕まって空を飛べば跡も残らないからわからないはずだ。どんな場所へ行けるだろうか。暑い夏は嫌いだから、どこか涼しい場所がいいなあ。
そんなことを思いながら息を吹き込んでいると、もう膨らまないくらいに風船はパンパンになっていたけれど、口を縛っても一向に空に浮かびあがる気配はない。ヘリウムが入っているでもないその球は、手を離すと地面に落下し、ボヨンと跳ねて転がるだけだった。がっかりしながら風船を眺めると、口の近くで歪んだ文字が「特別な空気が必要です」と言っていた。とんだ忘れ物だ。ござの上に空気入れがあったかどうかなんて思いだせないけれど、そんな特別なものが必要なら爺さんだって教えてくれていよかったじゃないか。そう思ってみても、あの爺さんがどこにいるかなんて知る由もないから諦めて家に帰るしかなかった。
家を出るときには携えていなかった、大きな水色の風船を見て母親がどんなリアクションをしたのかは覚えていないけれど、空を飛んでどこかに行かなかったのもあって、伊織は夏休み明けに宿題が終わらず居残りをさせられていた同じ境遇のクラスメートと仲良くなり、その後は卒業までそれなりに楽しく小学校での時間を過ごしたのだった。
それでも、あのときどこかへ飛んで行けていたなら、違った楽しい生もあったのかなあと思ってみる。やっぱり捨てられないものだなあと風船を片付けて段ボールをしまうと、そういえば5箱目はまだ確認していなかったと再び取り出す羽目になるのだった。