誰かが投げ返してくれることを期待して球を放ってからしばらくは、果たして誰かが拾ってくれたのかどうかが気になって仕方なくなる。
そわついている自分をメタってSNS病だねなんてくさしてしまうけれど、メディアが変わったってだけでかつての人々も手紙に返事があるかどうかでそわついてたんだろうから根本のところは似たような話であって、そんなふうに斜に構えることもまたそれで青い気がしてくる、という態度は斜に構えている。
そんなことはどうでもよくて、明後日の読書会に向けて読んだ鶴見俊輔の言葉は平易でわかりやすいけれど読み進めるたびに驚きがあって素晴らしい。そんな彼が推薦している高田保のエッセイをのぞいてみると、確かに似た類の軽妙で心地の良い感じがしていた。
あなたがいきなり一人暮らしを始めるのは危ない感じがしておすすめしないという友人の言葉の通りで、私はどこまでいっても人が好きだし寂しがり屋だから、ある友人にかけてもらった言葉を先日部屋でひとり思い出して泣きそうになったことには我ながら驚きもしたけれど、やっぱりそれって「私」のすごい現れだと思う。壁越しに聞こえてくる賑やかな話し声を聞いて寂しくならなくなったとしたら、それは私にとってかなりものすごい変化なのだろうけれど、今のところその気配はしなくてずっとほのかに寂しい。
そして結局また同じサイトを開いて、何もないのを確認して、閉じた。さらにまた未練がましく開いて再読み込みのボタンを押すのだった。消せばいいだけのそのタブをそのままにしてしまっているから、多分眠る前にあと何度か同じことを繰り返すことになるのだと思う。
耳鼻科で処方された薬はあまりにも多いから、毎度ちゃんと適切に飲むことができてているかどうか怪しい。その答え合わせをするために来週の月曜まで待つ必要はなくて、残りの錠剤を数えれば今すぐにだって明らかにできてしまうのだけれど、失敗を突きつけられるのが嫌なのもただめんどくさいってのも働いてそんなことはしていない。