261029:弁明

日記

僕は、よっぽど身近な人間に関わることでなければ、一緒に泣いたり怒ったりすることができない。もちろん、僕がその境遇に置かれていればと考えてみたり、それを前提として問題とされている事象を見たりしたいし、その必要はあると思っている。けれど、大抵そこで止まるし、そこで止まりたい、あるいは止まっていいし、なんなら止まった方がいいのではないかと思っている。

昨日、来年入社する予定の会社のイベントに出ていた。そこでは共感にまつわる話がなされていた。それは簡単に言えば、共感とは誰かの強い味方になることであり、その味方の外にいる敵に対して攻撃的になってしまうことでもあり、諸刃の剣であると。だから共感(Empathy)よりも、対象からもう少し距離のある、思いやり(Compassion)くらいが望ましいのではないかということだった。

何か問題とされていることがあり、その問題を引き起こしている人がいたとして、僕はその人のことを、僕だったかもしれない人である、と思っている。僕は被害者になることよりも、加害者になることの方を恐れている、とも言える。僕が加害者に対して攻撃性を抱くことは、その加害者に僕を投影することから距離がある。そしてその距離は、いずれ僕が加害者になる危険に対して、予防の手を打つことの妨げになる。ある人がどうして加害に至ったのかを考えることは、僕が僕の置かれている環境からその原因を取り除く助けになる。

僕は僕を警戒している。人格は分裂している方が健全だと思う。僕は僕を信じていない。しかし、僕とともにいる他者に安心していてもらうためには、その他者を僕に対する疑いから解放して、僕を信じてもらう必要がある。つまり、「僕が僕を信じている」とその他者に信じてもらう必要がある。僕が僕の加害性を意識していることがその他者に伝わることは、僕がその他者にとって加害者になりえることを意識させることであり、その他者の平穏を害することにつながる。

適切に振る舞わなければならない。つまり、演技や建前が必要である。それらがないと、他者と穏やかに関係を結ぶことが困難になる。そして僕はそうした僕の演技や建前に気づいている必要がある。僕はそれを観察しながら、警戒心を抱き続けていなければならない。

僕は中途半端で曖昧なところにいたい。己の立場性をはっきりとは持たない、という立場性をはっきりと持っていたい。できたら線を引かずにいたいがそれは困難だから、線を引きながら、線を引いていることに気づいていたい。

この文章は、共感を評価するか否かという軸で線を引いたものになった。僕は共感から距離があるが、他者に共感できる人は総じて優しい人だと思う。優しい人のおかげで世界が回っているという面は確実にあると思う。しかしこうした言い回しは、「共感」を境界線として、「僕」と「あの人たち」を分つものであり、問題である。難しい話だと思う。