『黄金探索者』(ル・クレジオ)

摂取

荒波に揉まれながら舵を切る高揚を、六分儀で緯度や軽度を測る方法を初めて知る興奮を、私は知らない。目的地に運んでくれる安心安全な交通機関に揺られて、現在地はGPSが教えてくれる。私はこの時代だから生き残ることができているタイプの人間だろうから、そんな時代が良かったという気はないが。(312頁)

「女を船に乗せない」と言った類の迷信は、もしどうしようもない災害に見舞われたときに、その理不尽さを向ける先とされることから、彼女たちを守ろうとする行為だったと言い得るかもしれない。ひょっとしたら。果たして、どっちが先だったのだろうか。(313頁)

潮が引くまで船を泊めることはできない。目の前に目指していた陸地があるというのに上陸できなもどかしさは、西洋の現代文学であろうと、日本の古典であろうと同様にみられる。熱狂は持続しない。あまりにも待つ時間が長ければ冷めて当然なのだ。 (316頁)

姉が存在する社会とは遠く離れた船の上で、姉に対する賛美の言葉を聞いた時の主人公の赤面はどう言ったものなのだろうか。(325頁)

戦地に戦士として赴きたくて仕方ないのだという心持ちは如何なるものなのだろうか。その熱狂と昂揚のもとにあったならば、私もそう思っていたのだろうか。現在の感覚で当時を評価することは適切ではない。そして、現在に生きる私が、現在の感覚を脱することはできない。作者と登場人物の視点を通じて、間接的にものをみて考えるほかない。(400頁)

「栄えある死」ではなく、どうしようもなく、あっけなく死にゆく兵士たちの姿は『シン・レッド・ライン』においても描かれていた。手榴弾を取り出そうとして、誤ってピンを抜いてしまい、死んだ兵士のシーンを、今でも覚えている。(414頁)

「しかし心の奥で走っている、オディロンが泥の戦場に顔を埋めるように倒れたことを。我々が行き着くことのできなかったあの丘の暗いラインの手前では、あんなに太陽が輝いているのに」(424頁) 何とも美しく、残酷な描写だと思う。

ブーカン、かつての家がなくなってしまったことに対する主人公とロールの受け止め方の違いは、その事態をどの程度前から知り、受け止めているかというところにも当然あるのだろうが、主人公が冒険と戦争という非日常に身を投じ続けていたのに対して、ロールは弱った母の世話をし続けるという日常を生き続けているということにもよると思う。(434頁)

二度目のロドリゲス島への航海は、記述の分量も重みもあっさりとしてものだった。主人公が抱く印象はこんなにも変わったのだろうかと思ったが、単純に航路がだいぶ短くなっていたからきっとそのせいなのだろう。(442頁)

ル・クレジオ, 中地義和 訳 (2009), 『黄金探索者』, 河出書房新社