ここ最近ご無沙汰しているけれど、縁あって知り合った、社会思想史学がご専門の素敵な博士課程の先輩がいる。私も — 今は生活史だなんだと言ってふにゃふにゃとしているが — 社会思想史学の研究室に所属しているので、どんなふうに研究ってするもんなのだろうかと気になり、飲み会ののち、カラオケに向かう道中でそんなことを尋ねた。今年の2月のことだ。
その先輩は、卒論はいろんな人の思想を引っ張ってきつつ自分の主張を述べるパッチワーク的なものとなったが、修士論文は1人の思想家のテクストを丹念に読み込むようなものになったとおっしゃった。単純に、すごいなと思った。そんなふうに向き合い続けさせられてしまうほどに魅力的な人物と出会えるだなんて。私は一体誰についてどんな論文を書くことになるのか、そもそもそんなことができるのか、さっぱり想像もつかんなと思ったのだった。
結局のところ今年は社会思想史学専攻らしからぬ題材と方法でゼミ論文を書くことにしたのだが、三週間ほど前からある思想家が気になり出した。内田義彦氏の『社会認識の歩み』という本で取り上げられていた、ホッブズ先生である。彼は大著『リヴァイアサン』で国家を検討するあたって、まず人間を理解することから始めている。それは、国家を構成する人間を考えること抜きに国家を語ることなどできないという、至極真っ当な態度である。そして彼は人間の行為を理解するにあたって、その動機となる情念を考えたのだが、その説明が一々しっくりくるのである。学習の甘い段階で適当なことを書いて恥を晒したくもないのでこの程度にするが、なんだか惹かれてしまう思想家なのである。
というのが前置き。今日も今日とて中間テストの用意としてぱらぱら本を読んでいたのだが、今回の範囲であるマンデヴィル先生もまた面白そうな人なのである。「人間は欲望を克服するに及ばない、欲望を隠すことで十分なのである」1のフレーズが好きすぎる。田中敏弘氏はこれを「情念は克服不可能であるだけでなく、社会の発展にとり有用かつ不可欠のものだからである。高慢の偽装と変形こそ未開人の文明化にさいして現れてくる行動の変化なのである」2とまとめるけれど、なんかすごくしっくりくる。
マンディヴィルとホッブズが重なりそうだと感じたことを少しだけ。マンディヴィルは「高慢とは、悟性をもつあらゆる人間が、彼の資質と事情に十分通じた公平な判定者が彼に許しうる以上に、彼自身のことがらを過大評価し、よりよいように空想する、あの生まれながらの能力なのである」3といい、ホッブズは似た話を得意や自惚れとして論じた。曰く、「人が自分の能力を構想することから生じる喜びは、得意と呼ばれる心の高揚である。[……] それがもし、彼自身の以前の行為についての経験に基づくならば、それは自信と同じことだが、それが [……] 他人の追従に基づくか、あるいはその成り行きに対する歓喜のために彼自身によって仮想 [……] されただけのものであれば、自惚れと呼ばれる。この名称は適切である。なぜなら、十分な基礎をもつ自信は、ある行為を成し遂げるための努力を生むのに対して、能力の仮想はそうではなく、従って空しいと呼ばれるのは正しい」4のである。そして、「自分がそのような能力をもっていないことを知りながら、その能力を偽りまた仮想することから成りたつ自惚れは、青年たちに極めてありがちなことであり、それはまた、勇ましい人物の歴史や小説によって助長されるが、年をとったり、仕事につけば、しばしば矯正されるのである」5と述べる。いずれも耳が痛いなと思いつつ、上手いこと言ってるなと笑ってしまった。
ちなみに、マンデヴィルと対立する存在として挙げられていたハチスンはあまりにもさっぱりだった。文体の肌に合う合わないもあるんだろうけど、今回ハチスンについて読んだものがどれもこれも所有権の捉え方に関するものだったのがよくない気がする。ロックにしてもそうだけど、所有権云々の話をされても、はぁそうですかとなってしまってどうにも……。この関心の持てなさは一体なんなのか。全然違う話かもしれないけれど、それは「人間行為の動機」6を問題としているのか、「行為の動機を離れ、行為の結果」7を問題としているのかにあるのかもしれない。今のところ、私の関心はもっぱら前者にあって、たまたまホッブズやマンデヴィルについてはそのあたりが取り上げられた文章を読んだってだけなんだと思う。多分どの思想家も両方について何かしらは述べているだろうから、しっくりきてないロックやハチスンにも面白いところはあるのだろうな。
いずれにしても、ホッブズやマンデヴィル、あとは「理性は情念の奴隷だ!」とか言ったらしいヒューム先生の人間論が気になるところ。惹かれる人との出会いって嬉しい。