「あなたの代わりはいるから、気に病むな」
この言葉は、私が寮自治の仕事を自分のキャパシティに対して多く引き受け過ぎてしまい、限界を迎えた時に、人からかけてもらった言葉である。この言葉のおかげで肩の荷が降りて、精神が砕け切ってしまう前に休む決断を取ることができたので、今の私はほどほどに元気にしているのだが、受け取ってすぐに腑に落ちた表現ではなかった。
というのは、しんどさを感じながら仕事をしている一方で、その状態を「組織に貢献している他ならぬ自分」とみて、アイデンティティとしている側面もあったからだ。「あなたがいるから助かっているよ」、「あなたがいないと回らないよ」などという言葉をもらいたくて、その言葉を励みにして、頑張っていた私からすると、「あなたの代わりはいるのだ」という言葉には拍子抜けしたし、ショックを感じさえもした。
交換の可能性と仕事
しかし次第に、「代わりはいる」という表現が、「私の存在そのもの」ではなく、「役職につく私」に向けられているのだということを理解できるようになってきた。基本的に、「仕事をする主体」は交換可能な存在である。寮自治の役職は分担されたり代替わりして引き継がれたりするものだし、アルバイトは欠員が出たら募集がかかり、家宅捜索の場での弾劾に胸を痛めて機動隊員が職を辞しても、後任はそのうち補充される。
「代わりはいるから、気に病むな」という言葉は、交換可能な主体としてあることに固執する必要はなく、そこで疲労困憊になって精神を病むくらいだったらやめちゃっていいんだよ、と解釈できる。
交換の不可能性と人間関係
一定の技術や資質があれば、仕事をする主体、抽象化すれば交換可能な主体であることはできるが、この節では交換不可能な主体について考える。恋人はルックスや収入が基準値を満たせば交換可能なのか、あるいは、喧嘩別れした友人と完全に交換可能な人間は存在するのだろうか。そんなことはない。確かに、心の琴線に触れる要素には主体ごとにある程度の傾向がありえるし、気性が違いすぎる人との付き合いで精神をすり減らすことは往々にしてあるので、明言しえなくても何らかの基準が存在していておかしくない。しかし、それはあくまで必要条件の話であって、基準を越えれば誰でも即座に交換可能とはならない。
「あなたの代わりはいるから、気に病むな」という主張を、「交換の不可能性を重視するべきであって、交換の可能性に固執する必要はない」というものであると、私は解釈している。
交換の可能な主体として存在すること
先の節で交換不可能性の優位を述べたが、一方で、やはり我々には交換可能な主体として存在しなければならない側面もあると、最後に付言しておく。仕事に出てお金を稼がなければ交換不可能な関係性を維持することもできないし、機動隊が大挙して押しかけてきたらこちらも頭数で対抗しなければならない。交換可能だからといって棄却できるほど単純な話ではないのだ。
私は大学3回生となり、気がつけば上回生と言われる歳になってしまった。私の役割 – ただし交換可能である役割 – は、年下の世代が交換可能性の中で壊れてしまわないように、体を張って支えることである。そしてそれは、これまで私が上回生にしてきてもらったことである。できる範囲で交換可能な主体としてありつつ、交換不可能な関係性を構築してそこで安らぐという、正気を保つことのできるバランス感の中で、どうにかこうにかやっていきたいものである。