2ヶ月前の文章である。青く、読み返すことは恥ずかしくて躊躇われる。しかし、この問題意識を起点に、少なくともこの1年間は、考えを深めていきたいので、投稿することにした。
はじめに
2024年3月1日 から3月10日にかけて行われた、外山恒一氏が主催する「教養強化合宿」、通称「外山合宿」に、私は第33期生として参加した1。そこで得たものは色々とあるが、最も大きな気づきは、「皿洗い」という行為を通して見えた私の心の動きようである。寝食を共にする中で、私は共同体の一員であるという意識を強く持つようになり、私と他者との境界が曖昧になっていく。共同体に課された仕事を引き受けたい気持ちと、その大きな責任に耐えきれない気持ちとの間に葛藤を抱く。「皿洗い」をめぐる気づきとは、この困難への対処法であった。そしてその気づきは、これまで感じてきた同種の苦しさに対応する手がかりとなるものであった。
本エッセイの目的は大きくふたつある。ひとつは自己治癒と自己理解である。そのため、極めて「私」的な記述となってしまうことをご容赦いただきたい。そしてもうひとつは、このような人間もいるのだという、サンプルの提示である。私と似た体験をしてきた方には、あなただけではないのだ、ということをお伝えしたい。そして、お互いに、どうにかこうにか自分を労りながら生活していきましょうと言いたい。また、違うタイプの方には、あなたの周囲にもこんな人がいるかもしれませんとお伝えしたい。断っておくが、「だから気を使ってくれ」という話ではない。そんな人もいるのかと知ってくれればそれで十分である。
授業設営から見える共同体意識
「これまで感じてきた同種の苦しさ」とは、共同体の中にいる「私」が、「私」と「他者」との境界を見失い、「私たち」である共同体において、「私たち」の責任を過度に引き受けるために生じてきたものである。一例として、高校での授業設営を挙げる。
私の通っていた音楽系の高校には、聴音という科目があった2。その授業では、講師が教室に来るまでの休み時間に、椅子と机を出して授業を受ける用意をしておく必要があった。この設営には明確な役割分担が存在しておらず、気が向いた人から取り組むことになっていた。「私」は率先して設営をする部類であった。その積極性は、「私たち」が休み時間中に設営を終えなければ、講師を待たせてしまうことになるということへの恐れによるものであった。もちろん「私」以外にもすすんで設営をする友人はいたが、その一方で、教室の端の方でずっと会話している友人もいた。「私」は後者の友人を見て、何とも言えない気持ちを抱えていた。
上記の通り、「私」は「私たち」生徒が行わなければならない設営の責任をあまりにも強く感じていた。「私」の席だけを用意して、友人たちの談笑に混ざることもできたのだが、どうにもそうすることはできなかった。「私」はあくまでも「私たち」の成員であり、「私たち」のなすべきことを終えるまでは心が落ち着かなかったのだ。
このような苦しさを、違う場面でも私はしばしば感じていた。しかし、今回の外山合宿において、私はその苦しさから脱する手がかりを見つけたのである。きっかけは些細な「皿洗い」であった。
外山合宿での「皿洗い」をめぐる気づき-「私たち」の責任を引き受けること
「皿洗い」をめぐる気づきを簡単に述べると、このようなものになる。
「私たち」が使用した皿を洗うのではなく、「私」の使った食器と、「私」が口にするに至る過程で使用された調理器具や配膳道具のみを洗うようにしたことで、楽になった。
この文章は、先ほどまでの「私」のふるまいとは噛み合わないように感じられるかもしれない。「私たち」の仕事であるとしてすすんで椅子を並べていた人間が、「私たち」のために皿を洗うことをやめたのだから。しかし、この変化は「私たち」による大きな責任を引き受けることをやめて、「私」による小さな責任だけに向き合おうとする、「共同体意識の放棄」によるものだとして以下で説明されていく。まずはそれに先立って、ここでいう「私たち」の定義と、外山合宿における食事の形態について述べる。
ここでいう「私たち」とは誰か。それを定義するためには、外山合宿の構成員を把握する必要がある。ここでは構成員を3種類に大別する。合宿主催者である外山氏、「私」を含む受講生12名、そして大人数の食事を一手に作り上げる食事係3である。そして、「私たち」を「食事係」でない合宿構成員と定義する。
また、外山合宿における食事とはどのようなものか。9泊10日にわたって、昼食と夕食を「食事係」が一人で作り上げる。配膳と後片付けについては、合宿構成員全員で行うが、そこに明確なルールは存在しない。気が向いた人たちが、食卓へ鍋や炊飯器を運び、皿に盛る。気が向いた人たちが、食べ終わった後の食器や調理器具を洗い場へ運び、洗う。最終的に「私たち」が片付けられなかった分については「食事係」が洗う。このような状態である。
さて、本題に戻ろう。「『私』は『私たち』の分の皿を洗っていたが、途中でそれをやめて、『私』の食事行為に関わった皿のみを洗うようになった」のである。「私」が「私たち」の皿を洗っていたのは、「食事係」に片づけという重労働を任せてしまいたくなかったからだ。この人数分の食事を用意するだけでも重労働であるというのに、それ以上に仕事を増やしてはならない、増やしてしまいたくはない、というわけである。「私たち」の使用した皿を「食事係」に洗わせてしまった時に、「私」は「私たち」を代表して、「食事係」に対して申し訳なさを感じる。「私」はこの申し訳なさを回避するために皿を洗うのである。この現象は先に触れた、高校での授業設営のさまに重なる。
ここで一点補っておく。このように書いてしまうと、まるで誰も手伝ってくれない中、「私」一人が孤独に皿洗いをしていたような印象を与えてしまうかもしれない。しかし、事実はそうではない。不思議と自然に、皿洗いは2 ~ 3人で行うことになるのである。誰か一人が洗い始めてそれに続くか、あるいは、示し合わせて最初から複数人で洗うか、どちらかとなる場合が基本であった。したがって、皿洗いは単なる苦行ではない。そこで発生するコミュニケーションもあり、それはそれで楽しいものであった。
しかし、結果として、「私」は「私たち」の皿を洗うことができなくなってしまった。ぼんやりする時間が欲しい。皿を洗う時間があったらあの本を手に取ってみたい。おやつを買いにコンビニへ出かけたい。これらの欲求を満たすことと、「私たち」全員の皿を洗うこととの両立は、少なくともその段階での「私」にとっては、不可能であった。このように、もはや「私」は「私たち」全員分の皿を洗うことはできないが、しかし、「食事係」への申し訳なさは回避したいと考えている。どのようにすれば、この問題に対処できるのだろうか。
外山合宿での「皿洗い」をめぐる気づき-共同体意識の放棄
ここで私は、「共同体意識を放棄すること」に活路を見出した。「私たち」という捉え方を解消し、「私」と「他者」との間に明確な線を引くことにしたのである。今やこの空間にいるのは、外山氏、「食事係」、「私」、「あのこ」、「そのこ」…である。
「私」が「食事係」に対して申し訳なさを感じないようにするためには、「私」のために、「食事係」の仕事を増やしさえしなければいい。すなわち、「私」の食事行為に関わった皿を、「食事係」に洗わせなければいいのである。「私」の食事行為に関わった皿とは、「私」の使用した食器、「私」の食べた料理を作る過程で使用された調理器具、「私」の分を取り分けるために使用された配膳道具などだ。それらを洗いさえすれば、「私」は「私」の責任を果たしたことになり、「食事係」に対して申し訳なさを感じずに済むのである。
とはいえ、調理器具・配膳道具も量は多い。ずっと洗っていたら疲弊するに違いない。しかし、それらについては、「私」の他に「あのこ」も関わっているものであり、「あのこ」にも洗う責任は発生している。だから、「私」が全てを負う必要はない。もちろん全ての調理器具や配膳道具を片付けてしまった方がすっきりするし、元気があれば洗ってしまえばいい。ただし、無理をする必要はないのである。
このようにして「私」をなだめることで、「他者」が洗わないことを「私たち」の責任を果たしていないこととみなして不快に感じることがなくなり、また、「あの人たちの代わりに洗ってやっている」という押し付けがましい感情を抱くこともなくなった。この一連の過程が、「『私たち』が使用した皿を洗うのではなく、『私』の使った食器と、『私』が口にするに至る過程で使用された調理器具や配膳道具のみを洗うようにしたことで、楽になった」というものである。
これまで、私の選択肢には、共同体の仕事を完遂するか、それができなければ共同体を去るかのふたつしかなかった。そしてもちろん、完遂することなどできやしない。しかし、私が人間である限り、何の共同体にも属さずにいられるわけもない。したがって、私はいつも心のどこかで他の成員に対して申し訳ない気持ちを抱えながら、ずるい自分を恥ずかしく思いながら、ダメな自分にへこみながら、何らかの共同体に所属し続けていた。今回の気づきである「共同体意識の放棄」は、一見すると極論的に感じられるかもしれないが、「最低限の仕事をこなして、穏やかな気持ちで共同体に所属しようとする態度」として解釈すると、中間的な第三の選択肢だとみなすこともできよう。この意味で、「共同体意識の放棄」は、少なくとも「私」にとっては、画期的な気づきだったのである。
おわりに
共同体意識の中で自己と他者との境界を見失い、あらゆることを引き受けすぎて苦しくなるというのは、これまで私が生きてきた中で幾度となく繰り返してきたことである。今回合宿で実践した共同体意識の放棄は、それに対処する一つの手がかりであると言える。強い責任感のために疲弊しているのであれば、まずは心と体の言うことを聞いて事態から距離を置く。そして、落ち着いたら責任感そのものを疑ってみる。そうすることで自分を労ることができるだろう。
ただし、責任感そのものを、「自己意識が肥大化した、愚かしい感情」だとみなしてしまうこと、これはこれで不健康である。原理的にいえば個々人が均等に共同体運営の仕事を行えば済む話なのだが、実際はそれほど単純な話でもない。社会には、複雑さを調整してくれる優しい人たちのおかげで回っているという側面がある。人が「優しい人」でありたいと思うことは自然なことである。何かしらの共同体の中で私は生きている。「優しく」ありたいが、心と体の制約のために「優しく」あれない。そのような矛盾を抱えたならば、まずは心と体の声をよく聞くことから始めて、私を労わりながら、ふるまいを望ましい方向へと修正していく。これを繰り返していくなかで、行動の指針がゆっくりと形成されていくだろう。
最後に、本エッセイで扱った「共同体意識の放棄」は、あくまで「手がかり」にすぎない。「私的」なものであると断った通り、普遍性のある議論は全く行えていない。加えて、私が似た他の場面で共同体意識を放棄しきれるか、というところにも疑問は残る。そして、私の議論において、「共同体意識」という表現に多義性があるという問題もある。それは、「『私』は人間である以上『共同体』に所属せずにはいられないということに自覚的であり、その意味で常に何らかの『共同体意識』を抱えている存在であるが、しかし、『私』が『共同体』の中で健やかに過ごしていくために、『私』は『共同体意識』を放棄しなければならないのかもしれない」という一文で表現される通りである。
私は大学で社会思想史を扱う研究室に所属しており、ここでは毎年一万字程度のゼミ論文を提出することが義務付けられている。指導教官とのやり取りの中で、本エッセイで扱った具体例は、抽象化していくと、「個」と「社会」、あるいは「個」と「共同体」という、社会思想史学上で問われてきたテーマにつながるという気づきを得た。今回の議論を出発点として、ひとまず一年をかけてこの問題に取り組んでみようと思う。先人の議論を踏まえた上で今回扱った事例や類する経験を見つめるなら、ようやく本エッセイは「私」的なものを超えた価値を持つことになるだろう。