私は自室での時間を好む。自室においては、私以外の何者も私を眼差すことはない。その事実が私を解いてくれる。しかし、自室では安らぐ以外の何もできなくなる。糸が切れたように、ぼんやりと時間を過ごすこと以外には何もできなくなる。だから、何かしたいと思うときにはきまって外に出る。誰も私を眼差そうとしないかもしれないが、しかし誰かが私を眼差す可能性は存在している、外に出る。
気に入っている喫茶店がある。大きめの通りから少し奥に入った場所で、ひっそりと佇んでいる喫茶店である。カフェインを取ると動悸が早くなってしまうので、ハーブティーを頼むことにしている。週に2度ほど通うようになって1年が経った。小さい店なこともあって、常連の顔はだいぶ覚えている。話しかけたことも、話しかけられたことも一度もないが。
半年から3ヶ月くらい前までの期間、その喫茶店には美しい客が来ていた。週に1度、土曜にその人はあらわれた。相手の目に私が映っているかどうかは知らないし、一度も言葉を交わしたこともないが、私はたまに視線を送っていた。幸い目が合うようなことはなかった。同じ空間にその人がいるという事実だけで作業が捗るように感じていた。
その人はきまって本を読んでいた。古本が好きなのか、くたっとした文庫本を手にしていることが多かった。ある日にその人の読んでいた本のタイトルがやけに気になったので、こっそりとメモをとっておいた。絶版になっていて、新品は見当たらなかったので古本の通販で購入した。
その人を見なくなってしばらく経つが、喫茶店自体は気に入っているので今も私は通い続けている。結局のところ件の文庫本は最初の10頁くらいで止まってしまっているのだが、その喫茶店へ行くときにはいつも鞄に入れることにしている。