〇〇は鍵を拾った。それは不完全で古風な鍵だった。持ち手は三つ葉のクローバーのようで、差し込む部分には突起も何もなく、ただただ細い円柱形をしている。鍵というよりも細い金属の棒にささやかな持ち手がついている、といった方が正確かもしれない。〇〇にとってそれは当然捨ててもいいものであったが、手に持ったときの意外な重さと、なんとなく漂う神秘的な雰囲気がその行為を妨げた。結局〇〇はポケットに放り込んだまま家へと歩いた。
家にたどり着いたとき、〇〇は気まぐれに玄関の扉にその鍵を差し込んだ。鍵はすんなりと入った。試しに右にひねってみると、聞き馴染みのある解錠音が響いた。〇〇は首を傾げながら鍵を抜き、扉の取っ手を捻った。扉はいつものように開いた。これはなんでも開けることができる鍵なのかもしれないと思った。
〇〇は夕飯の食材を切らしていた。自転車に乗って買い出しに行こうとしたとき、この自転車も拾った鍵で解錠できるのかもしれないと思った。試してみると、やはりその通りだった。
〇〇には同棲している恋人がいるが、〇〇は前々からその恋人が浮気をしているのではないかと疑っていた。〇〇は恋人とともに夕食をとった。〇〇が片付けや風呂を済ませたとき、恋人はすでに眠りについていた。恋人はたくさんお酒を飲んでいたので、起きてくる気配はなかった。〇〇は恋人の携帯電話をこっそりと充電器から外し、画面に向かって件の鍵を突き立てみた。すると鍵は画面にするりと入り、右にひねるとロックを解除できた。〇〇は恋人のメッセージのやりとりを覗き見た。やはり、恋人は浮気をしていた。浮気相手と恋人のやりとりからは、じとっとした湿り気が感じられた。
予想していたこととはいえ、やはり〇〇は苦しかった。この苦しい気持ちを胸から取り除きたいと思った。〇〇は自分の胸に鍵を突き立てた。カチャリと音がして、胸は開いた。自分の胸の内側を覗き込むのは難しかったので、洗面所の鏡で様子を見ることにした。
胸の中は小さな棚のようになっていた。手前に冷たい色のトゲトゲとした物体が目についたので、なんとなくつまみ出した。手に取るとチクチク刺さるように痛んだので、思わず投げ出してしまった。床に落ちたそれは衝撃に耐えかねて砂のように崩れ、空気の中に溶けていった。ふと〇〇は自分の心が落ち着くのを感じた。改めて胸を中を見てみると、ガラス製のジャム瓶のようなものがたくさん入っていた。最も手前にある瓶を取り出してみると、それには恋人の名前のラベルが貼られていた。なんとなく開けるのが怖くて、〇〇はそっと胸に戻し、扉を閉めて鍵をかけた。
〇〇は閃いた。恋人の胸から浮気相手の瓶を取り出して中身を捨ててしまえば、恋人の浮気心は無くなるのではないだろうか、と。〇〇は眠っている恋人の胸に鍵を刺して扉を開けた。最も手に取りやすい位置に浮気相手の瓶があった。〇〇は躊躇うことなくそれを取り出し、蓋を開けた。温かい色のふわふわとした物体や、澱んだ色のぬるくドロドロとした物体を瓶からかきだしては地面に捨てていった。それらは先ほどと同じように空気に溶けていった。冷たい色のトゲトゲとした物体はそのままにして、瓶の蓋を閉めた。片付けようと恋人の胸を覗き込んだついでに、〇〇は自分のラベルの貼られた瓶を目で探した。少し奥まった場所にあったので取り出すことは難しかった。〇〇は浮気相手の瓶を片付けて、恋人の胸の扉をしめた。
毎晩〇〇は恋人の携帯電話を覗いた。浮気相手とのやりとりは日に日に険悪なものになっていき、とうとう喧嘩したままに終わった。〇〇は安堵した。これで平穏な日々を送ることができる、と。しかしその後も恋人の浮気癖が治ることはなく、恋人は色んな相手と遊び続けた。その様はまるで、欠けてしまった何かを必死で埋めようとしているようだった。〇〇は気づく度に浮気相手の瓶を取り出しては中身を捨て、恋人との関係を保とうとした。
〇〇は疲れ切ってしまった。苦しさに耐えかねたある日、〇〇は自分の胸から恋人の瓶を取り出して、瓶ごと地面に投げ捨てた。瞬間、頭を殴られたような感覚とともに〇〇は意識を失った。体がバランスを失って倒れ込むのに伴って、胸の中のものも外へと雪崩でた。幾つもの瓶が割れては空気に溶けていった。
しばらくして〇〇は目を覚ました。自分にいったい何が起こったのか思い出そうとしたと同時に、〇〇は頭痛と眩暈に襲われた。〇〇は「何か」を思い出そうとしたが、しかし、その「何か」を構成する要素はもう〇〇の中にはなかった。不完全な記憶の裂け目は埋まることなく、ひびが全体へと伝播し、全てが砕けていく感覚が〇〇の中を走った。耐え難い吐き気の中で〇〇は嘔吐と発狂を繰り返し、突然ぷつりとことが切れた。その後〇〇が目を覚ますことはなかった。