250418に漂う臭さについて

その他小論

昨日書いた「250418:華金」は、青春や爽快さをイメージさせるような臭いを持った日記である。

この臭さについて考えてみたいと思ったのは、半年以上前に、私が書いた日記に対して友人から「しかしこれはあまりにも空が青すぎる。俺はもっと白橋くんの全裸中年男性ぶりを見たい」と言われたことを思い出さずにはいられなかったからである。

「ここには嘘がある」と思いながら、しかし書きあげた「250418:華金」について、一晩置いた上で考えてみる。


日記を、簡素で淡白なものに、できる限り臭さがない状態にしてみる。

19:00
図書館でLINEを開き、先輩からの連絡を見て予定を間違えていたことに気づく。電話でやり取りの後、帰寮し待ち合わせ場所へ。

20:00
改札に着き、合流。中華料理屋へ向かう。青島ビール、ご飯、青椒肉絲などを食べる。各々の近況について話す。

22:00
店を後にする。雑談の続きをしながら先輩の宿泊先へ向かう。


この要約において、例えば20:00における「近況」や、22:00における「雑談の続き」といった表現を「とりとめのない話」といった表現にしていたならば、「とりとめのないものとして取り上げることによって美しく描きだそうとしている」という意図が臭うものになっていただろう、と思う。


日記を読み返す。

「お前みたいな、ねちょねちょしたやつはごめんだな」と笑ってくれるのに合わせて、私も笑った。

「250418:華金」より

ここには、例えば「青春」を彷彿とさせる臭さがある。事実を述べているだけであるのに、なぜそのように感じられるのか。

それは一つに、彼らが「笑い合」っているからかもしれない。「笑い合う」は臭い。直接的に「笑い合う」という言葉を使用していなくても、彼らが「笑い合」っている様が、ここには表れすぎている。


もう少し取り上げる。

食べ終わって外を歩いた頃には風も涼しくなっていた。先輩も私も独り身で、やっぱり相手が欲しいし結婚したいという話をしながら、しばらく一緒に歩いた。ここ2人でくっつくことができたら丸く収まりそうだけれど、お互いに恋愛の相手は女性である必要があるって幻想を抱いてしまっているからしょうがない。友達みたいな付き合いはできるし心地いいけど、私も先輩も、同性の私と先輩じゃあお互いの欠けを埋めることはきっとできないと知ってる。

「250418:華金」より


ここも、全体的に嫌な感じが漂っているが、そう言い放ってしまうだけでは何にもならない。もう少し要素を確認していく必要がある。でも、一文一文を取り上げて考えるには、少し難しい。

ざっくりと、この場面が「選択された」ことに臭さがあると考えてみる。

問題は、「どう」切り取るかに加えて、「何を」切り取るかもある(もっとも、これらふたつは完全に切り離せるものではないが、このように分けてみることは可能だと思う)。「どう」は修辞で、「何を」は題材の問題である。

ここにおいては、言葉の選び方云々という修辞の問題よりも、「男性2人が恋人欲しさを嘆いている」という、情けない場面を、ことさらに選択し、題材としているところに、臭さがあると考えられる。人目につかせることを前提に、切り抜いて再構成しているところに、臭さがある。

いやそれよりも、そのまま忘れてしまったっていいだけの経験を、私が文章のネタとして消費してしまったところに臭さがあるのかもしれない。


臭さのない、誠実な文章を理想的なものとして立ててみる。しかし、どうすればその文章を書くことができるのかについてはまだ見えない。

書かないことによって臭さがなくなるのだとしたら、きっと何を書けば良いのかわからなくて途方に暮れてしまう。

少なくとも今は、臭い文章を書かないために、文章そのものを書かなくていいとは思っていない。ひとまずは書く必要があると思っている。けれども、ただ書き続けるだけで臭さがなくなるとも思っていない。考える必要がある。