こんな梯子がある。それは人と人とが約束事を交わすときに生まれる、地面から空に向かって垂直に伸びる梯子である。自分の手の先に待つ空間を見ようと上を見ても、靄がかかっていてよく見えない。しかし、自分より下の空間は透き通って明瞭に見えるので、これまでに登ってきた梯子の長さを眺めることはできる。また、人はこの梯子を登ることはできるが降りることはできない。足を一段上へと持ち上げるたびに、足元の透明な地面もまた上へ上へと拡がっていく。
梯子には、かける者と登る者がいる。かける者は梯子の長さを自由に伸び縮みさせられる。かけた梯子を外すこともできる。外された梯子は消えてなくなる。また、登っている者が両手を離したときにも梯子は消える。梯子が消えたとき、登っていた者は透明な地面の上に取り残される。空を見上げても、空にはいまだに靄がかかっていて様子はよく分からない。見えるのは足元から下へと広がる空間だけである。消えた梯子が元に戻ることはない。できることは似た梯子を新たに作り直すことだけである。
幾人もの私が同時に梯子を登っている。登る梯子の数は際限なく増やすことができるが、あまり増やしすぎると世界は不安定になる。不安定が高じると、照明が切れたように世界は真っ暗になる。再び明るくなったときには、たいてい何人かの私が呆然と透明な地面で座っている。彼らはきっと驚いて梯子から手を離してしまったのだ。残りの私は相変わらず梯子に手をかけている。
私には思いを寄せている人がいる。その人に胸の内を伝えたとき、その人はこういった。あなたの気持ちには応えたいけれど、まだこころが追いついていない。だから、私の準備ができている場所まで梯子を登ってきてほしい、と。
私は梯子を登っている。どのくらいの時間登り続けているか分からないが、梯子の始点はもはや遠すぎて目に見えない。そのくらいには時間をかけて登ってきている。靄がかかっているから、あとどのくらい登ればあの人の元へ辿り着けるのかも分からない。私は登るしかない。あの人が梯子を外さないことを祈って、あの人が私を待っていることを願って、登り続けるしかない。
もう手を離してしまってもいいのではないかと何度思っただろうか。もはや数えることを諦めたけれど、今も私は登り続けている。それは惰性なのか、執念なのか。私があの人に思いを伝えたことは事実だが、その地点からかなり離れた場所に来てしまって記憶も不確かになってしまった。なぜ私は手を離さないのだろうか。よく分からないままに、また一段上へと手を伸ばす。