遥には趣味があった。毎年9月、給料日後の週末にはメッセージカードとボールペンを持って電車に乗り、買い物に出かける。雑貨屋街を歩いて程よいコルク瓶を手に取り、好みの香りのする文香を買うのだ。本音を言うと新しいメッセージカードを買いたいところなのだが、4年前に購入した5枚セットのものを使い切るまではお預けだ。
5年前の9月、遥は散々なことになっていた。思いの外大学の単位は取れておらず、2年ほど付き合っていた恋人とも別れ、性に合わない就職活動で疲弊していた。ひどく惨めで実家に帰る気分にもならず、下宿で朝から晩までゴロゴロしては買い込んでいた冷凍食品とカップ麺を食い潰していく日々を送っていた。
ある日、部屋を圧迫していくゴミ袋とそこからなんとなく漂う異臭が不快だったので一念発起してゴミを捨てにサンダルを履いた。数往復してすっきりとした部屋を見て、今日は寝巻きのジャージを脱ぎ捨ててお出かけをしてみようかという気になった。シャワーに入り、久々によそ行きの服に袖を通す。水道水をペットボトルに汲んでカバンに入れ、靴を履いて外に出た。なんだかパッとしない曇り空だったが、夏から秋へと映るようなほのかな涼しさがあって心地よかった。
いつもの駅に着く。別に行き先は決めていなかったが、街中へ出かける気分ではない。気まぐれに、海にでも行ってみようかと思った。シーズンも過ぎているし、人でとてつもなくごった返しているということもないだろう。改札を通って、しばらく電車に揺られる。あんなに家で寝ていたというのに揺れが心地よくてうとうととしてしまった。目を覚ましたら目的の駅を過ぎてしまっていて焦ったが、まあ一人だしよかろうと思いなおして電車を降り、反対方面行きの電車に乗り換えた。
今度こそ寝過ごすことなく、海の最寄駅に着いた。改札を出る。潮の匂いがする。海は近い。思いの外水をがぶがぶ飲んでしまっていたので自動販売機で飲み物を買う。せっかくなら普段飲まないものにしようかと思ったが、下手に甘ったるいものを買ってあとあと喉が渇くのは嫌だと思い直し、ただの水にする。口をつける。冷蔵庫から取り出したばかりの液体が喉の熱を取り去ってくれる。
そうこうしている海についた。こちらの天気もぼんやりしていて海もなんだか暗かった。だが、そんなことは問題にはならないくらいに広々としていて嬉しい。ぽつぽつと人はいるようだが、気合を入れて泳いでいるような人はいなかった。
波の音を聞きながらぼんやりと砂浜を歩いていた。すると、とある打ち上げられているペットボトルが目に止まった。ラベルは剥がれているし、中に液体は入っていないようであったが、何か紙切れのようなものが入っている。なんだろうと思って思わず拾う。ざらりとしている表面を撫でてキャップを回した。
大抵こういうのは入れるのは簡単だが取り出すのは面倒なものだ。思うように中の紙が出てこない。数分格闘してようやく取り出せた。紙は日焼けしていたが、文字を読むことはできた。「sunny」と、ただそれだけが書かれていた。わざわざ苦労して取り出したのがばからしくて笑ってしまったが、なんだか楽しかった。「そっか、晴れてたのね」と、口に出して笑った。周囲に誰がいるでもない。こんな場所で独り言を言う癖を無理に押さえつけることもないだろう。
ペットボトルをそのままにしておくのは忍びなかったので、帰りに自動販売機の隣にあるゴミ箱に捨てた。中の紙切れだけをポケットに入れて家に帰った。玄関を開けて電気をつけたそこはいつもと何も変わらない部屋だったのだが、心なしか漂う空気が軽くなっているようだった。傷心が癒えるにはまだ時間がかかりそうだが、少なくともお腹は空いていた。遠出でそれなりに疲れていたから近くのラーメン屋で食事を済ませることにした。しょっぱくて美味しかった。
それからというもの、遥は毎年9月にメッセージボトルを海に流している。自分の使ったペットボトルが誰かに拾われるかもしれないと思うと少し気持ち悪いのでガラスの瓶を買うことにしている。メッセージカードと一緒に入れる文香が誰かの手に渡るまで香り続けてくれるのかどうかはよくわからないが、いい香りがするって素敵だと思って毎年入れるようにしている。メッセージの内容はその日の天気。特に意味はない。
今日の天気は曇り。はじめて拾ったときと同じようにパッとしない天気だ。着いた駅から海へと歩き、白浜に座りながら「cloudy」と書き込む。コルクをしめて、流すにほどいい場所を見つける。ここだと思った場所で瓶を海にそっと浮かべる。今日の晩には近い場所に打ち上げられてしまうかもしれないし、しばらくは海を漂うのかもしれない。誰かが拾うかもしれないし、誰の手の届かない場所に打ち上げられるかもしれない。ガラスが割れてしまって海の底へと沈んでしまうかもしれない。そんなボトルにぱちゃぱちゃと、あっちへお行きと水をかける。数分眺めていたが、このくらいでいいかなと思って腰を上げる。もう9月の末だというのにまだ暑さを感じる。じきに10月になる。早く秋服を着たいものだと思いながら、遥は浜辺を後にした。